7章 退院後の学生生活

進学問題

献身的に治療して下さった河敬世先生と井上雅美先生と家族全員のサポートのおかげで、中学校入学まで数カ月を残した一二歳で、やっと阪大病院を退院することができた。退院後は、姉が通っていた中等部、高等部と短期大学がある名門私立女子学校に、私も通いたいと願っていた。それは密かに心に決めていた目標だった。

しかし、病状的に安定しきれていず、学力的にも到底準備ができていない私には、もちろん姉の学校の受験に間に合うはずがなかった。私の発熱は治まっていたが、指の痛みとこわばりは残っていた。そして、指の関節が変形し始め、箸が上手く使えなくなっていった。

膝と股関節の痛みと変形も進行しつつあり、周りの筋肉は収縮し可動域も狭くなっていった。圧迫骨折を繰り返していた腰には引き続きコルセットを使用していた。こんな病状でも家で過ごせる喜びはひとしおだった。

私は普通に地域の小学校・中学校へ進学していく予定だった。地域の小学校は私を「特別学級なら受け入れます」と言ったそうだ。両親は学校側に私を普通クラスで勉強させたいと頼んだ。しかし、学校側は私の普通クラスでの入学を拒否した。学校は病気を持った車いすの私を受け入れようと努力すらしてくれなかったそうだ。

父は、私が勉強できるような環境にある学校を探してくれた。それが平野養護学校だった。そして、そこの学校の訪問学級小等部に入学した。

当時は養護学校と言っていたが、文部科学省が二〇〇七年に「(特別)支援学校」と名称を変更した。支援学校とは、障害を持った生徒たちが通う学校のことだ。

そして、訪問学級とは、重度の障害や病気のために支援学校に通えない生徒のために、教師が週に数回家庭を訪問し教育的なサポートをすることだ。ここでは当時のままの養護学校と言わせてもらう。

下原先生との出逢い

ここでもカンナ様の運の良さ・強さが発揮されたのだ! 振り返れば校区の学校に行かなくて大正解だったと心の底から思う。下原ミサヲ先生という世界一素晴らしい教師に出逢えたからだ。

下原先生は、世界一教育熱心で知的で上品な教師だった。もちろん、下原先生も私の“偉大なる人たち図鑑”に載っている。

一口メモだが、先生は姉の通っていた女子中等高等学校の大先輩だった。世間は広いようでとても狭い。下原先生は訪問学級小・中学部での十二歳から十五歳の約四年間、私を教えて下さった。

週にたった二回、一回二時間の訪問教育だったが、先生は精一杯いろんなことを教えて経験させて下さった。先生との勉強は、あまり外に出られない私のために体験型学習が多かった。先生はいつも重い荷物を背負って、夏の暑い日も冬の寒い日も春も秋も電車とバスを乗り継いで来てくれていた。