8章 大阪女学院短期大学時代

文化祭での活躍

ボランティア部は十一月に行われた文化祭でも活躍した。私たちの部は、韓国ラーメンを出し物に選んだ。

その日は雨も降り寒い一日だったので、私たちのラーメン屋さんには行列ができ、終了時間までに完売した。その年は、ネギの値段が高騰し、一時は違う出し物にしようかと考えたが、私の母がネギと白菜キムチを差し入れてくれた。

そのおかげで、一日目も二日目も売り上げNo.1に輝いた。後日、部員たちと打ち上げに行ってお祝いをした。私と部員たちは、事故やけが人が出なかったことにまずは安堵した。そして結果がついてきたことに満足感でいっぱいだった。

全員でハイタッチをし、ジュースで乾杯をした。部員たちも大変喜んでくれた。私の中でのシアワセ感と高揚感はなかなか治まらなかった。忘れられない最高の日になった。

そうそう、文化祭のイベントのひとつにハンバーガーの大食い大会が催された。

私の仲良しの友人がイベントに参加した。私は忙しくて応援に行けなかったが、母が代わりに行ってくれ、電話で実況中継してくれた。

とてもよく食べる体の大きな教授と競い合っていたそうだが、最後に友人が追い越して優勝を勝ち取ったのだ。友人は拍手喝采を浴びたそうだ。その場に居られなかったことが残念だった。

私はその一報を聞いた時、やっほぉー! とガッツポーズをした。勝たせてあげたかったので、自分のことのように嬉しかった。

文化祭には最高の思い出しかない。

就職の厚い壁

こんな楽しい短大時代にも、現実を突きつけられたこともあった。みんなと同じように、就職活動をして自分自信の実力・レベルに戦いを挑んでみたかった。学校の就職サポートセンターに通い、スタッフの人たちは誠心誠意協力して下さった。

しかし、内定どころか面接をしてくれる会社すらどこにもなかった……。ざっくりした理由としては、車の免許がない、障害を持った人を雇用できる環境にない、だった。

障害者雇用促進を勧められている大企業でも、障害者枠がいっぱいで雇用の空きがないということだった。

こういった悔しさや挫折感を感じられたのも、私が本当の意味で自身の人生を歩んでいた証拠だったと思う。それと同時に、同じ土俵では周りと同じレベルでは決して太刀打ちできないと思い知らされた。自身にもっと“箔”を付けなければふるいにかけられて負けてしまうと痛感した。

英語を身に付けたいという理由と、漠然とだが病気や障害を持った人たちへの精神的サポートができる職業に就きたいという思いから、心のケア(カウンセリング)分野が発達しているアメリカに留学することを決意した。

そして、そのアメリカ留学で決して誰にも奪えない学歴という“箔”を付けられるだけ付けようと心に決めた。