私たちが住んでいる世界とは別に、思いの世界が存在すると思い知らされた。祈祷が終わり、あとの会話でいろいろ教えられた。正体が判明すると急激に力は弱ること、でも油断は禁物。
夫人の祈祷中思惑の人の体の痛みを其のまま受け、苦しいときは苦しく、痛いときは痛いこと、全く知らない人、関係のない人の思いは受けないこと、此方が知らなくても相手が知っている場合があること、本当に気の許せる人以外此処には連れて来てはいけないこと。
未だ疑問は残った。油断をするなというが対処の仕様がなく、痛みを伴う祈祷をして体は大丈夫なのか、祈祷料の決まりはなく全て御志である。菓子箱の中に熨斗袋をのせる者あり、里人は取れた大根、白菜を供える者あり、様々である。
「体は痛みませんか」と尋ねると、夫人は「こういう風に生まれたけんな、しょうがないでえ、痛みは尾を引くんでよ」と言って屈託なく笑う。笑顔に救われる思いがした。
私のあとに来た人の祈祷を見ていると夫人の声が変わり、「お前の近所に白い犬をだいてこんな言葉を使う者がおるだろう、そいつはお前の家に入り込みとうて、入り込みとうて、お前にええことばかり言うてお前にすり寄ってきとんじや、入り込んできたらどうなるかわかるやろろ」
祈祷してもらっている女性は身に覚えがあるのか小刻みに震えている。女性は「わかりました。ぜったい寄せ付けません」と言い、暫しのちに祈祷は終わった。女性が帰って私と母が最後になり世間話のなかで御不動さんがこんなことを言ったのを覚えている。
「好かれてもいかん、嫌われてもいかん、難しい世界かもしれんでよ」
話も終わり母と座を辞した。次に訪れたとき葉書ほどの大きさの肌守りを用意してくれていた。木綿で包み首に掛けるように紐がつけられていた。此の頃になると吐き気もなくなり、体力も回復していた。ここまで来るのに何年かかったのだろう。