非効率的・不合理的読書法

本を読む理由は、成長のために自分に投資するという正攻法の他に、休息や癒やし、娯楽や暇潰しというようなゆるい目的があってもいいし、私にも当然あります。無尽蔵に時間をもてるなら別ですが、本業があるなかでは、なかなか恵まれた読書環境に身をおくことはできません。それでも有意義、かつ快適な読書を心がけたいというのは、虫がいいと言われようと、偽らざる本心です。

そのための考え方として変なことを言いますが、「せっかく時間を割いて読むのだから、なるべく非効率的、不合理的な読書にしよう」ということです。普通はスマートでスピーディーな読書が有益と信じられていますが、効率的かつ合理的に読む読書にあまり意味があるとは思っていません。時間がないからこそ、「確実に読書をした」と言えるような本読みを心がけるべきなのです。

自分に必要な箇所だけを拾い、残りは斜め読みをして結論だけを理解して読み終えたとしても、本の真価は問えないような気がしますし、すぐに忘れてしまいます。逆にそんな読み方をすると、「効果的に読まなければ……、結論を正しく解釈しなければ……」というプレッシャーに苛まれてしまうような気がします。

そういう意味では、最近、“遅読”が見直されてきています。『遅読のすすめ』(山村修・著)、『遅読家のための読書術』(印南敦史・著)、『遅読術』(適菜収・著)などなど。遅読の“遅”は、“緻(緻読)”でもいいかもしれません。

「オレは、本を何冊読んだ」ではなく、「オレはあの本のあの一節にメチャメチャ感動した」と言う方が、本の有意性を実感できるでしょうし、単純に楽しんだ感が高いと思うのです。

情報を得るだけでなく、文脈に触れるだけでもなく、どのような考えや描写がそこに繰り広げられているかというプロセスを知ることです。実際私も、「たいした工夫をしていない」と言いましたが、そういう読み方を繰り返すことで、読書の楽しみを知り、著者の考えを知り、自分の好き嫌いを知りました。

おそらく多くの書き手にとって、本は、結論を先に決めて書いているわけではありません。書きながら物事を考え、書くという作業を通して思考を形成し、書き直すことによって思索を深めています。ペンを走らせながら、結論を導いています。そんななかで、自分の語る文章が解りにくいという自覚があれば、比喩を交え、具体例を挙げ、言い回しを整え、あらゆる手を尽くして(それで、本当に伝わっているかは別としても)表現しようとしているのです。

読み手にとっては結論が大切かもしれませんが、書き手から言わせていただけるなら、その過程をゆっくり味わってもらいたいのです。最終的な一言を導き出すその過程にこそ、本当の価値が潜んでいるのです。

たとえば、「読書の目的は人生を豊かにする」という結論があったとします。この一言を述べたいがために私の場合は、「読書には書くという行為が前提にあり、書く前には考えることが必要で、考える前には丈夫な心身が不可欠で、丈夫な心身のためには、フィジカルとメンタルのバランスが大切で、そのためには乗馬やジョギングが欠かせなく……」などなど、回りくどい説明が必要になってきます。

著者としては、こうした根拠が大切だと思っているのですが、効率的・合理的な読み方をしている人にはなかなか伝わりません。“量の読書”から“質の読書”へ、もっと言うなら“結論先取り読書”ではなく、“根拠深読み読書”へと移行させてほしいと感じます。