突然の父の死
この年の九月、怪我の癒えた私が先頭をやった全学連は、相模原で機動隊の阻止線を突破して、総崩れになった彼らを追撃した。最後は彼らが逃げ込んだ警察署の前で渦巻デモをやってその戦いを終えた。
部隊は安堵の中に後列から引き揚げていったが、しばらくして、部隊の歩みが止まった。不思議に思っていると、xx派がいるという囁きが伝わってきた。それと共に部隊は恐れと戦きに包まれていった。私は仲間たちを掻き分けて前線の部隊に加わると、激しい投石を受けて、体が浮き上がるようだった。
そして、部隊は歩くように突撃し、「負ける」と思う間もなく、私の前の列から戦列が崩れた。そこから部隊が総崩れになって潰走した。私も逃げたが、追撃を受け、振り下ろされた鉄パイプの一撃目を腕で受け止め、そして、二撃目を頭部に受けてヘルメットを割られた。私はその場から逃げおおせたが、逆上して引き返し、その場にいた仲間たちと戦線を立て直そうとしたが、これも破られてもう一度敗走して、戦いは終わった。
全学連の初めての敗北だったという。側頭部から横顔が腫れて、顔全体が歪んでいたが、不思議に痛みは感じなかった。ただ腕で受けた鉄パイプの乾いた感触が、いつまでも脳裏にこびりついて離れなかった。
私は負傷して仲間たちに連れて歩きながら、運動の行く末を案じ、自分がどうすべきかを考えあぐねた。私の頭に鉄パイプを振り下ろしたxx派の青年の憎しみと、それを受けて逆上した私の憎しみには云われがなかった。階級闘争に意味があるとしても、党派闘争に意味はなかった。私はそれをなすに自分の中にどんな必然性も見出せなかった。
どうするか、結論を下せないままに、なぜか病気の父が死ぬまでは、このまま運動を続けていようと思った(父が死ぬまで、私も自分の死の追求を止める気にはなれなかったのだ)。しかし、不思議なことに、それから数日して、突然、父が死んだという訃報が届いた。
私は一滴の涙を流し、戦列を離れて田舎に帰った。私はそこで青ざめた父の遺骸に見えた。父の亡き骸は痩せてサルのように小さかった。私は言い様のない罪の意識を覚えると共に、肩の荷を降ろしたような気がした。
私は挑むように喪主として葬儀を取り行い、一週間ほど田舎に居てから東京に帰った。そんな私を待っていたのは活動家の友人xxだった。