仙台藩二
『三百藩家臣人名事典』には、次のような話が載っている。
仙台藩の重臣松本要人は、反逆首謀者として捕らえられそうになると、妻に言われて逃亡した。
そして妻は、家臣の千葉源左衛門に言い含めて自殺させ、その遺骸を松本のものと称して、松本の墓を建てた。
新政府軍は、松本の死に疑問を持ったようであるが、墓を見て納得し、墓を十重二十重に縛って辱めた。
松本は函館戦争に参加した後東京で捕らえられたが、大赦で故郷に帰り、教職に就き、77歳まで生きたという。
仙台藩三
逆に部下が上司に罪を被せた話が藤原相之助『仙台戊辰史』にある。
仙台藩が降伏すると、仙台領に入った新政府軍の兵士たちは傍若無人に振る舞った。
当時、仙台の南の苅田郡に白鳥神社という神社があった。そこは日本武尊の霊が白鳥に化して鎮まった場所と伝えられ、このため、苅田郡・柴田郡の一帯では白鳥を殺すことが厳しく禁じられていた。
ところが、新政府軍の兵士たちは、白鳥を撃ち殺しては食べた。人々は悲しんで兵士たちに止めるよう訴えたが、兵士たちは聞かず、人々の兵士たちへの憎しみは膨れ上がっていった。
そんな10月下旬のある日、柴田郡船岡邑の領主柴田意広の家臣森玉蔵は、芸州兵たちが白鳥を撃ち殺すのを見て憤激し、兵士たちに向かって発砲した。芸州兵は怒って、総督府の参謀に「仙台藩士が官軍に発砲した、処分すべし」と訴えた。
仙台藩では驚き、急ぎ玉蔵を捕らえさせたが、玉蔵は護送される途中逃げてしまった。玉蔵の逃亡を聞いて怒った総督府参謀高橋某は、「逃亡は主人意広の責任なり、厳重に処分すべし」と仙台藩に命じた。仙台藩では、意広を「預け」の処分にするとともに、速やかに玉蔵を召し捕り差し出すよう意広の一族に命じた。柴田では総出で玉蔵を探したが、捕らえることができず、高橋にしばしの猶予を哀願した。
しかし高橋は、「向う三日の内に玉蔵を捕らえねば、主人意広を東京へ護送し吟味を申しつくべし、且つ、ことここに至る上は、仙台藩主伊達慶邦の謝罪にも障害となること必せり」と仙台藩を脅かした。慶邦は、反逆の罪で東京に護送される途中にあった。
藩侯の身にも罪を及ぼしかねないと聞いた意広の一族が集まって思案に暮れていると、柴田家の家老が「願はくは拙者の首を刎ね、之を玉蔵の首なりとして差し出されんことを」と申し出た。
回りの者は驚いて、「まだ日もあるので精一杯探索しよう」といったんは止めたが、「もしそれでも捕らえられなければ、貴殿の忠死も止むを得ないだろう」ということになった。