天文十八年(西暦一五四九年)

中嶋城の物見櫓から江口の方角を長慶様と儂は遠望していた。

殿、榎並城を前にして、宗三に側面をとられましたなぁ」

「ただ兵の数は、さほど多くはないようだが」

「確かに細川や六角のはなく、宗三殿の幟しか見えませぬようで」

「弾正忠よ、何か策はあるか」

この問いに、あらかじめ考えていた策を儂は披露した。

「然らば我が勢のうち、何隊かを江口の向こう岸の別府に布陣させ、逆に宗三を挟撃してはいかがでしょう。江口に上陸さえしてしまえば、砦自体はたいしたものではありませぬ。その際、もし政勝が榎並城から打って出たとしても骨と皮ばかりの餓えた兵など恐るるに足りませぬ」

長慶様は一瞬で考えを巡らし、軽く頷き、

「弾正忠、冬康に舟戦の用意をさせよ。また一存にも出陣の準備をするよう伝えよ」

長慶様の下知は素早かった。

十七日、長慶様は安宅冬康と十河一存に兵を預け、江口の向こう岸にある別府という所に布陣させ、宗三隊が陣取る江口の砦を挟み撃ちにする形をとった。

しかし長慶様はこの期に及んで、宗三を討つことにどこか躊躇われているご様子であった。宗三もおそらく六角勢の到着を待っているのであろう。両者は睨み合ったまま数日が過ぎていった。

長慶陣営で、六角勢の到着を危惧する声が次第に高まり始めた六月二十四日、ついにその六角勢の接近を告げる報が中嶋城にもたらされた。

「六角勢は近江を立ち、既に京まで兵を進めているとのこと、その数およそ一万」

なかなかの大軍に一同はどよめいた。

そんな折、同様の報を受けたのか、別府の安宅・十河の陣に動きがあった。水軍を擁する淡路の安宅隊の軍船が一斉に神崎川を渡り始め、江口に次々と接岸した。接岸した淡路軍船からは一存率いる阿波・讃岐衆が続々と江口に上陸し、江口砦に攻撃を始めた。

「彼奴らは勝手に何をしているのだ」

中嶋城の物見櫓からそれを遠望していた長慶様は弟らの勝手な攻撃開始に、少々語気を強められたが、攻撃そのものをお止めになることはなかった。

虚を突かれた宗三勢は動きに精彩を欠き、簡単に一存隊の上陸を許した。

一存率いる阿波・讃岐衆は、六角勢本隊より一足早く近江から来援していた新庄直昌を真っ先に討ち取るなど、次々と敵将の首をあげ、進撃していった。

士気の上がらないまま宗三勢は旗下の高畠甚九郎、田井長次、平井新左衛門などの重臣が忽ち討たれ、壊滅状態に陥った。

「川舟を留めて近江の勢も来ず問わんともせぬ人を待つかな」《『足利季世記』より》

宗三は力尽きたのか、一首の歌を残して、自ら淀川に入水して果てたという。

榎並城から打って出る間もないまま合戦の趨勢が決してしまうと、城将の三好政勝は自落し行方知れずとなった。

を受けた細川晴元は三宅城を捨てて山城国の嵯峨へ逃亡し、一万もの大軍で摂津山崎まで進軍していた六角勢も、本国である近江へと退き上げていった。

「天下の安否は必ずしも此の一戦に限ることではない。再び大軍を起こして、逆徒を退治すればよい」