三 天文十六年(西暦一五四七年)

「爰にて行合、両方矢戦を止メ、相カゝリニ懸ル、三好ヨリ畠山総州ト松浦肥前守ノ手一番ニ進ミ、互ニヤリ合ノ数刻ノ戦ナリ。両方ノ鑓数百本ノセリ合有。近代無双ノ大ゼリ合ナリ。河内ノ衆三木牛ノ助ヲ初トシテ、究意ノ兵四百人打死シケレバ、忽敗北シテ落行ケル。四国衆モ篠原雅楽助、安宅左京亮初テ五十余人打レニケル。今日合戦ハ松浦衆ト畠山総州衆ノ惣勝也トゾアツカイケル」《『足利季世記』より》

寒さも緩み始めた二月下旬、儂ら三好長慶勢を主力とする細川晴元勢は、摂津国内の原田城、三宅城など細川氏綱方の城を次々と落とし、六月には有力国衆である薬師寺元房の拠る芥川山城と池田信正の拠る池田城をほぼ戦うことなく降伏開城させた。

これにより摂津国は完全に晴元勢の支配下となり、氏綱勢を率いて摂津を転戦していた河内守護代の遊佐長教は本国の河内へと兵を退いた。

三月には将軍足利義晴公が氏綱勢を後方より支援すべく近江から戻り、京の北東にある勝軍地蔵山城に入城したが、特にそれ以上の動きは見せなかった。

大きかったのは、去就を決めかねていた近江の守護六角定頼が、四月になって儂ら晴元勢に味方することとなり、儂らの気勢は上がった。

「これでお味方の勝利は間違いなし」

と皆の表情も明るくなった。

七月十二日、儂ら長慶勢は晴元様を推戴して上洛し、相国寺とその周辺に布陣した。この頃には兵は二万五千に膨れ上がり、ただでさえ蒸し暑い京の町は人いきれで(むせ)ぶほどであった。

儂ら晴元勢は完全に京を手中に収め、勝軍地蔵山城の将軍義晴公はこうした状況にいたたまれず、城に火を掛けて近江坂本へと退いていった。

後方(東方)の憂いを断った儂ら長慶勢は、七月二十一日、晴元様を京に残し、氏綱勢の拠る河内国の高屋城を攻めるべく淀川沿いを南下した。摂津の榎並城で御一族の三好宗三・政勝親子と合流し、ここに三万近くの兵が集結した。