スープが冷める距離
風がすっかり冷たくなってきた。荷物が増えたのでリュックサックを背負い、中華粥の紙袋の小笠原老人の分を前籠に入れ、自分の分は左手に下げ、片手運転でマンションを目指した。マンションの入口の空いている場所に自転車を駐め、階段で三階へ行った。小笠原老人の部屋のベルを押す。「お待ち下さい」とインターフォンから声がして、ドアが開いた。
「いらっしゃい」
小笠原老人は濃紺のタートルネックのセーターの上から、明るいグレーのカーディガンを羽織り、濃いグレーのズボンをはいている。ベレー帽をかぶっていない頭は白髪で、短く刈ってあった。
「お言葉に甘えて、伺いました」
「いや、よくおいで下さいました。ま、どうぞ」
スリッパをすすめられて中へ入る。昔の2DKタイプのマンションだ。入口を入ると右にトイレとバスがあり、左のスペースがキッチンとなっている。一応襖の敷居などあるのだが、襖はとり払われている。右側が居間、左側が寝室だろう。居間にはソファーと硝子テーブルと肘かけ椅子が一脚、セットされている。
案内され、外套とリュックサックを玄関に置いて居間に入った。失礼だが部屋を見廻す。綺麗に片付けられている。そしてソファーの反対側の壁に沿ってサイドボードと小さな仏壇がある。
「失礼します」
そう言って仏壇の前に坐り、小さなロウソクを立て、その火で線香を付けて拝んだ。位牌の前に女性の写真がある。丸顔の明るい笑顔の女性だ。「有難うございます」私の後方に正座していた小笠原老人が丁寧に頭を下げた。
「家内です。五年前に亡くなりました」
私は仏壇にもう一度頭を下げ、ソファーに腰かけた。と、その時ベルが鳴った。小笠原老人が入口に行って何か受けとっている。出前をとったらしい。
「丁度の時間に来てくれました」
小笠原老人は長い盆を持って来て、その上のものを小さなテーブルに並べた。鰻の重箱だ。私は驚いた。末期ガンの患者がこんな濃厚なものを……。
「驚かれましたか」
小笠原老人は微笑んだ。
「どう言う訳か食事は何を食べても大丈夫なんです。尤も量はあまりいけませんが。あ、鰻はお嫌いでは無いですよね」
「大好きです」
「よかった。どうぞ召し上がって下さい」
茶碗と急須、ポットをテーブルの横に置き、肘かけ椅子に腰を下ろした。私は中華粥の入った紙袋をテーブルの横へ出した。
「実は、こんなものがお口に合うかと思いましたが……」
「いや、これは、かえってご心配をかけましたか、申し訳ない。有難く頂戴致します」と紙袋を持ち上げて中を見て、「これは中華粥ではありませんか。野原さん、まさか横浜迄、わざわざ行かれたのでは?」「いや、実は……」と美代子シェフのことを話した。
「その店は知りませんでした」
小笠原老人は喜んでくれた。
「有難うございます」
改めて礼を言うと紙袋を仏壇の前の畳の上へ置いた。鰻は美味かった。この一年ばかり食べていなかったので、余計に美味しい。小笠原老人は半分食べて蓋をした。さすがに一度に一人前は無理だと笑った。彼は明日の楽しみです、と台所へと立つ。私はもう一度室内を見廻した。小さな写真立てがあちこちに飾ってあり、全て彼と夫人が写っている。お子さんはいないのか?