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ALS
ある日、私が病室に入りカーテンをくぐると、京子がメラをくわえたまま、五十音字表を立てる間も与えず、舌打ちするリズミカルな音を立てて喋る合図をした。
私は慌てて、収納箪笥に引っ掛けている五十音字表を取った。すでに京子は口パクを始めていた。その早口の口パクが読めた。
「右アシ見テ」
「え!」
「左アシ、見テ」
「え!」
京子は黒目を右方向から左に動かして、嬉しそうに深い瞬きをした。私は五十音字表を布団の上に置いて、急いで勢いよく京子の足の布団を折り曲げた。
「……」
京子が何かを言った。長文になると、五十音字表を使うしかない。折り曲げた布団の下から五十音字表を抜き出し、目の前に素早く立てた。
「気持チヲ、集中サセテ、力ヲ、入レルヨ」
京子の枕もとで言葉の解読をしてベッドの足元を見た。薄オレンジの花柄模様のパジャマの脛が、わずかにユラユラと揺れていた。
「おおー。おおー」
再び足元に行き、パジャマをまくり上げ、動いている箇所の確認をした。日光に全く当たっていない白くて、とろんとした脛が現れた。
「動イタ? 動イタ?」
短文だと遠くからの方が、京子の口パクがよく読めた。今度は両足から左手へと順番にして見せた。
「おおー、すごい」
私は、再び声を上げて頷いた。他人から見たら、初老の男が声を上げながらベッドの周りをうろうろしている。ゲームでもしているのか、バカバカしいと思えるほどのことだったろう。というより奇異に見えただろう。幸い誰も見舞い客がいなかった。私は一区切りついたところで、大息を吐きながらベッドの横の丸椅子に腰を下ろした。
「フフフ」
京子が私の様子を窺うようにして、楽しそうに笑った。
「モット、他モ、動クヨウニ、ナルカモ、シレナイ」
「えっ、どこ?」
「今ハ、分カラナイヨ」
今まで私がふくらはぎのマッサージをした時などに、左右の足首が少し動く程度の確認はしていた。左手の指先の小指、中指、薬指の三本も少し動く程度であった。右手だけは全く動かない。そう認識していた。今は左手の肘が少し動き、左右の脚のねじれの動きが確認できた。
ただ、その時の私には判断がつかなかった。いつから膝や肘をねじることができなくなっていたのか。そして今、また、動きだしたのか。ねじりの動きに対して、全くといっていいほど私には記憶がないのだ。
「今ハ、誰ニモ言ワナイデ」
と京子が付け加えた。それよりも、今だけ動くのか。それともこの動きが一晩眠っても、二晩眠っても、明日も明後日も続くのか。私の心が急に尋常でなくなって、部屋の空気と一緒に、共鳴しながら振動し始めていた。
「すごい」
いつから動いていなかったかなんて、もうどうでもよくなっていた。
「診断ヲ、間違エテイタノ、カモ?」
京子の期待に溢れた大きな目が私を見て、次の言葉を待っていた。
「息が苦しくて、目がくらみそうだよ。こんなことってあるんだ」
病状が後戻りすることはなく、ましてや回復するはずがない。
「とてつもなく、いいことじゃないか」