読書感想文の是非 何のために感想文は存在するか
医療従事者でも文章の下手な人はたくさんいます。そういう人に出会うと、書いてこなかったのだろうなと感じます。ルーツをたどると、読書嫌いで作文やら読書感想文やらを遠ざけていたという過去にぶつかることが多々あります。
そもそも本を読んだうえで、さらにまた、なぜ感想を書かなければならないのでしょうか。それはきっと、「きちんと読解し、自分の意見を他人に伝えられるようにする」というのが一般的な考えでしょう。
いまだから偉そうに言いますが、読書感想文には型があります。まずは「その本を選んだ根拠」、続いて「自分の感想なり考え」、さらには「その考えの由来」、最後に「得られた教訓と今後に活かすための工夫」で締められれば完璧です。そういう意味では、読書感想文というのは、書き手の持つ感性や思念を査定しているわけではけっしてなく、作者の主張に対して自分の意思をもてるか、その意思の根拠がどういうところにあるのか、そういうことが順序立てて書けているかを問うているのです。ですから、「面白くなかった、役に立たなかった」という感想であったとしても、その根拠が明確であれば、私だったら満点を与えます―かつて私は、医学部入試の小論文問題を作って採点していました。
無理に、正しく善いことを書こうとするから、ややこしくなるのです。
また、感想文を書く目的として、本に親しんでもらおう、感性を豊かにしよう、正しい考えを知ってもらおう、などということを期待させることが多いと思います。
しかし、私の考える読書感想文を書く目的は、そんなものではありません。現実的に考えるならば、いつかやがて訪れるであろうレポートやら卒業論文、果てはビジネスレターや報告書など、「角の立たない事務的な言葉を回りくどく人に伝えるための文書作成は、そんなに生やさしいことではない」ということを植え付ける最初の暴露というか、初動なのです。
もっと言うなら、当たり障りのない毒にも薬にもならないマナー文書を書くための、最初のきっかけなのです。そうでなければ、あんなつまらない本を読ませて、きれい事を書かせるはずがありません。「つまらない本のなかに存在する善いこと、正しいことを拾い出し、そこに共鳴する形で自分の言葉の体裁を整える」という作業の、人生初の取っ掛かりが読書感想文なのです。
私はそう思いますが、読書感想文の嫌いだった読者の皆さん、どう思いますか?