読書感想文は嫌いだったけれど
こういう言い方もなんですが、私の業界であるところの医療職には、優秀かつ育ちの良い人がたくさんいます。
比較的本好きの人は多いと思います。
がしかし、「読書はあまりしない」という人も、実のところ少なくないと推測します。
その明暗を分けたひとつの要因は、優秀であるがゆえに期待された"読書の強制"だと思っています。
本を素直に受け入れ、楽しみを覚えて読書を好きになった人がいる一方、強制された反動として読書が嫌いになった人も、同じくらいいるのではないでしょうか
―逆に、文学が好きで医者をやめた斎藤茂吉や渡辺淳一のような人もいます。
今回は、なぜ読書が苦手になったのかを、"読書の強制"という問題から考察してみたいと思います。
なぜ読書嫌いが生まれるか 学童期に経験する"読書強制"への反動
人を読書嫌いへと追い込んだ諸悪の根源は、読書の押しつけだと、私は―そしてきっと多くの皆さんも―思っています。
小・中学生の頃を思い出してもらえればわかりますが、現在、読書習慣のない大人は、「夏休みの読書感想文の宿題がイヤでイヤでたまらなかった」と言うのではないでしょうか。
それはつまり、指定図書(課題図書)がクソつまらなかったということに起因しています。
まあ、名作と言われるような本です。
なぜつまらないかというと、そういう指定図書には、善よいことか、正しいことしか書かれていないからです。
真っ当で、無垢な、汚れを知らない良書ばかり。
教育上いい本というのはそういうもので、「がんばれば報われる」、「正直であれば許される」、「信ずれば救われる」、「愛さえあれば何も要らない」的な内容です。
要するに、先の読める良識本と言えます。
そんな本を、ワクワクした気持ちで読める子供がどのくらいいるでしょうか。
さらに言っておくと、夏目漱石にしても、川端康成にしても、その他多くの指定図書とされた本にしても、それらの著者がどういう目的で、誰を想定して執筆したのでしょうか。
ほとんどの場合きっと、いい大人が、売れるように、大衆のために書いた本です。
そうしたベストセラーを、子供のための、教育を目的に、推薦できるかどうかははなはだ疑問です。