革命を起こす内科医の半生
冲中先生は、ご自身を運命論者と位置付けておられました。
慨していえば、先生はご自身の努力によって、運命を良い方向に向けられていました。しかし七十五歳に至って、運命は暗転したのです。
まず一九七六年五月、脳卒中発作があり、右片麻痺と異常感覚を来し、出血性脳梗塞と診断されました。治療の結果、順調に回復し、翌年の第十八回国際自律神経学会会長も無事に務められました。
しかし一九七八年二月に二回目の脳卒中発作を起こしました。このときは麻痺というより、無動無言、失外套症候群という特異な症状が現れました。
顔に表情がなく、言葉を発することができず、コミュニケーションが全くとれない。要するに人形の頭と同じです。見舞いにきた門下生が、あまりの変わりようにとめどなく涙が出てきたと述べています。
診断は多発性皮質下出血ですが、大脳皮質機能が広範に消失し、生ける屍にひとしい状態となったのです。冲中先生のように、誰もが師と仰ぐ名医で人格者が、一瞬にして最悪のミゼラブルな病態に変化しました。
それが十四年も続き、そのうち奥様も認知症に罹患されました。先生の輝かしい人生を思う時、それはまさしく昼と夜、明と暗、光と闇というべきでしょう。先生は晩年に至って奈落の底に落とされたのです。
そこから這い上がれることなく、十四年という長い時間が虚しく過ぎていきました。どうすることもできませんでした。しかも脳血管障害は先生が最も得意とする専門分野でした。
担当医は、先生は糖尿病、脂質異常、肥満、高血圧などの動脈硬化の危険因子が一切なかったと述べています。しかし先生は退職の際、
「もうこの辺が限界だ。今の生活がさらに二年続いたら、私は死んでいるかもしれない」
と述懐されました。私はここに大きなストレスがあったこと、それが脳卒中発作の引き金となったと推察しています。
先生は常に先頭に立って指導され、人一倍努力された。それは常に大きなストレスとなり、交感神経が緊張し、副腎皮質ステロイド、ノルアドレナリン、アドレナリンが分泌されたことと思います。
それが脳にのみ強い動脈硬化をもたらしたと思います。脳剖検の結果は、それを明らかに示しています。
先生の人生は、最期まで劇的でした。健康長寿を維持するためには、ストレスから解放されることがいかに重要であるかを、身を以て示されたのです。
冲中重雄先生の教えは、卒寿に達した現在の私の中にも息づいています。まことに感謝にたえないところです。どうか安らかにご永眠ください。私は最高の恩師を持った幸せを、いつも感じています。