(1)マニラ人間模様

とある晩、一一時を回った頃だろうか、幾世が自分の部屋で寝ようとしていた時、外から坂元が帰ってきて玄関のドアを閉める音を聞いた。そして、数分後シャワーを浴びる音を続けて二回聞いた。坂元はバスルームや自分の部屋のドアの開閉音を出さぬよう気を使っているようだが、この時の幾世の全神経は非常に研ぎ澄まされた状態にあり、壁一つ隔てたリビングやバスルーム、そして坂元の部屋の様子がイメージできた。間違いない、女だと幾世は確信した。物音がしなくなって一○分ほど経った頃、幾世はそっとリビングへ出て坂元の部屋の様子を窺った。いつも鍵なんか掛かっていないドアはロックされていた。

ノックして坂元の部屋の中を確かめたいという気持ちもあったが、言い争いになってお互い不快な気分になるのも嫌だったので、矛を収めることにした。しかし、何とかしなければいけないと考え過ぎてしまい、その夜幾世はしばらく寝付けなかった。

それから一週間くらい経った頃、幾世と坂元は仕事帰りに二人で寮の近くの居酒屋で夕食を取った。その時の坂元はいつになく口数が少なく元気がないようだった。幾世は自分

が抱いている疑惑に白黒つけたかったので、単刀直入に切り出してみた。

「お前、女で悩んでいるんじゃないのか」

「……」

「一週間前、お前の部屋から女の声が聞こえたぞ」と幾世はカマをかけてみる。

「実は……」と坂元は言いかけたが、その後が続かない。

「どうしたんだよ。同期のよしみだ。何でも言ってみろよ」と幾世はプッシュする。

「孕ませちゃったかもしれない」と坂元は蚊の鳴くような声で答えた。

「本当かよ。ちゃんと調べたのか」

「昨日彼女からそう聞かされたんだ」

「お前はどうしたいんだ」と幾世は畳み掛けて聞いた。

「できれば堕ろして欲しい」

「でも、カソリックの国だろ、フィリピンは。そんなことできないだろ」

「だから、どうしていいか分かんないんだよ」という声にはいよいよ悲壮感が漂う。

「どんな子なんだ」

「お前も行ったことあると思うけど、エルメスって店の子で、名前はアナベルっていうんだ」

「とにかく、会社には黙っていてやるから早く病院に調べに行けよ」

話している内にどんどん坂元が落ち込んでいくのが見て取れ、それ以上話も食事も進まなかった。幾世は慰めてもやれず、坂元を見ていられなかった。