(1)マニラ人間模様
小太りの男は勢いよく部屋の中に入ってきた。アナベルも恐る恐る男の後を追って入ってきた。男はアナベルの父親と名乗った。その男の醸し出す雰囲気は尋常ではなかったので、幾世は玄関のドアを開けたままにしておいた。いざという時に逃げられるように。坂元は二人をソファーに座らせていた。
ソファーに座るやいなや、父親はズボンのポケットから小型の拳銃を取り出しサイレンサーを銃口の先に取り付けテーブルの上に置いた。目は血走っている。そして、坂元を睨みつけマシンガンの如くタガログ語で捲くし立ててきた。何を言っているかさっぱり分からない。そのバカでかい声は確実に隣近所に筒抜けだ。
坂元もマニラに来てやっと半年経ったばかりで、込み入ったタガログ語の話はできるわけがなかった。ましてや、目の前に拳銃が置かれている。坂元は完全に萎縮しきってしまい父親と目を合わせられない様子。今正に目の前で起こっていることを幾世は坂元よりは冷静に見られてはいたが、どうすることもできなかった。
彼女の父親はマニラの北のブラカン州で警察官をしているらしい。そんなことが一方的に捲くし立てている父親の話の中でキャッチできた〈ブラカン〉という地名と〈ポリス〉という言葉から察せられた。あの拳銃は単なるブラフなのか、それとも事と次第によっては使うつもりなのか。これはヤバイ。本当にヤバイ。誰かを呼ばなければ大変なことになるかも、と幾世の頭の中は様々な想像が渦巻き爆発寸前だ。
そうだメンドーさんを呼ぼう、と幾世は思った。メンドーさんとは同じ会社の日本人スタッフのキヨミ・メンドーサのことだ。GH勤続一二年、歳は四十路半ば、同じマンションの一階上の八階にフィリピン政府観光省に勤務するフィリピン人の旦那と一緒に住んでいる。
寮に暮らす独身スタッフを時々夕食に招待してくれたり相談事に乗ってくれたりと、色々面倒を見てくれる姉御のような人なので、寮に住む歴代スタッフは彼女のファミリーネームに引っかけメンドーさんと呼んでいた。大阪弁丸出しで口は悪いが頼りになる。坂元の問題がばれてしまうが、最悪の事態を避けるためにはしかたがない。坂元を一人にできなかったので、幾世はキヨミにこっそりと電話をし、ヤバそうな人に脅されているので助けてくれと頼んだ。