プロローグ
二本の長い角を生やしたような外観の高層ビル、ジョンハンコックセンターの九四階の展望フロアから、晝間正嗣(ひるままさつぐ)は眼下に広がる海のようなミシガン湖を眺めていた。
吸い込まれそうに鮮やかな紺碧の水面(みなも)に、数艘のモーターボートが白い切り傷のような航跡を残している。はるか彼方の水平線はゆったりとした弧を描き、ライトブルーの空と接している。
ここはシカゴで一番の正嗣のお気に入りの場所である。この眺めも今日で見納めなのかと、この街への深い愛着を感じながら社会人になってからの二年間を振り返った。
私学の雄、西北大学卒業後、正嗣は中堅通信機器メーカーのGH(ジーエイチ)社に入社した。GH社は一九五五年にグッドホープの名前で創業したが、二○周年を機に社名をGHに変更し株式を店頭市場に公開した(その一○年後の八五年に東証二部への格上げを目指している)。
会社の製品は電話機や無線機などの通信機器とその付属製品だが、二○周年時に立てた国際化の目標に向かい、独自の企業変身を計っていた。
技術の海外流出を極力避けるため製品の研究・開発は日本国内で、生産は豊富な労働力を有しそのコストも低いアジアで、そして製品の販売市場はアメリカやヨーロッパに求める。
この方針の下、会社の利益は右肩上がりに伸び続けていた。そんな会社の成長期に正嗣はGH社に入社した。
大学では教育学部で英語・英文学を専攻し教育実習も行い、親父(おやじ)と同じように英語の教師になるのかなぁと、曖昧な将来設計を思い描いていた。
しかし、いざ就職シーズンに直面すると、それまで心のどこかに燻(くすぶ)っていた海外に飛び出したいという気持ちを抑えきれなくなり、大学の就職課で勤務先が海外という会社の求人票を探しまくった。
そして、勤務地がアメリカ、ヨーロッパ、アジア諸国と記された通信機器を生産するGHという会社を見つけ入社試験を受けた。
その当時、正嗣自身も友人たちも、誰もがこの会社の名前すら聞いたことはなかった。それはGH社の製品が日本でほとんど売られていなかったからだが、会社説明会で独自のビジョンを持ち成長している会社だと分かり、この会社に入りたいという思いが強まった。
他にも数社の大手企業の説明会に参加したが、それらの会社での自分の将来像は思い描けなかった。入社試験は英語の筆記試験とグループ面接が一日で行われた。
英語の試験はやたら難しかったが、全神経を集中させ全問に何らかの納得できる解答を導き出した。面接においても、自分を強くアピールできたとの感触があった。
一週間後、待ちに待った一次試験の合格通知が自宅に届いた。そして、その翌週の役員面接にもパスし内定が出た。正嗣は自分の中で第一志望と定めていたので、すぐにGH社への入社を決意した。
GH社の入社式は神奈川県藤沢市にある研究所兼試作品工場の中の集会場で簡単に行われた。この工場の規模はそれほど大きくはないものの、門外不出の技術の研究・開発をしており、やたらと入場制限が厳しい場所が多かった。
同期入社は正嗣を含め二五人で、内男性が二〇人、女性が五人だった。入社後、新入社員全員工場近くのビジネスホテルに宿泊した上で、この藤沢工場の会議室で一週間の研修を受けた。
二〇人の男性新入社員の内、六人が技術系、女性は全員事務系で国内勤務だった。正嗣を含めた一四人が海外要員として、藤沢研修の後、東京の南麻布にある本社で、五月末まで種々のオリエンテーションを受けた。