オリエンテーションの初日、一四人の勤務地が発表された。正嗣はアメリカのシカゴ、他の一三人は、アメリカに三人、ヨーロッパに六人、アジアに四人が割り振られた。
それぞれの海外勤務地への出発前、国内組も含めた二五人の新人に役員三人が加わり、伊豆へ二泊三日の親睦旅行に行った。そして出発の六月一日を迎えた。
形式上は現地法人である『GHアメリカ社』への出向とのことだそうだが、正嗣はシカゴへと飛び立った。
GHアメリカ社のビジネス展開は、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスを三大拠点として支社を置き、各支社が東部、中部、西部の三つに分けられたエリアを管轄した。
それぞれの支社の下には八○~一○○の営業所がエリア内の州の主だった都市に置かれていた。直営の営業所も数ヵ所あったが、ほとんどがGH社の暖簾(のれん)を貸す契約店であった。
三支社を統括するアメリカの本社機能は、シカゴ支社の一室に置かれた。これはシカゴのオヘア空港がアメリカの物流拠点であったためだ。
アジア各国で生産されたアメリカ向け製品は全てシカゴに空輸され、各州各都市へ流れていった。通信機器類は非常にデリケートな商品で且つそれほど重量がないため、船ではなくエアカーゴで運ばれていたのだ。
正嗣が勤務するGHシカゴ支社のオフィスはループと呼ばれるビジネス街にあり、当時建物としては世界一の高さを誇ったシアーズタワーの近くにあった。
住まいは独身スタッフ用の寮として会社が借りているマンションの一室があてがわれた。この寮の場所はシカゴ北郊外のオークデイル通りにあり、他の日本人スタッフもその界隈に住んでいた。
ダウンタウンは治安に問題ありと会社側は見ており、安全な場所に住むことを社員に奨励していたからだ。通勤は同じエリアに住む日本人スタッフ用の会社の送迎バスを使った。
正嗣に与えられた仕事は営業であるが、最初はシカゴ市内の二五社ほどの契約電話機卸業者へのルートセールス及びクレーム処理。
半年ほど経験した後、それにウィスコンシン、ミネソタ、アイオワ三州の地方営業も加わった。日本でほとんどの人が知らない会社の製品であったが、アメリカではすでにかなりの知名度があり、そのブランド名を轟(とどろ)かせていたので営業はしやすかった。
初めは英語で苦労するかなと思っていたが、慣れてしまえばどうということはなかった。