「で、葉月、いいかげんその子の腕、離してやったら? さすがにこの状況で、その子がうしろ向いて逃げ出すなんてことないでしょ」
そう葉月に声をかけてきたのは、おケイこと、桜井桂衣子。
「あ、うん」
桂衣子に言われ、葉月は、あわてて一年生の腕から手を離した。一年生も、ようやく少しほっとした表情になる。
やぼったいメガネに、ヘアピンできっちりまとめたお団子ヘア。それが、いつに変わらぬ桂衣子のスタイルだ。ひそかにつけられたあだ名は、ロッテンマイヤーさん。口の悪い男子からは、露骨におばさん呼ばわりされている。ところが彼女のほうは、それを意に介さないどころか、「好きなだけ言いなさい」と面白がっているそぶりさえあった。
にこやかに愛想を振りまくタイプではないし、周囲に媚びたりもしない。ちょっととっつきにくい雰囲気はあるものの、腹が据わっているというか、多少のことには動じない落ちつきがあり、いざというときは、それがものすごくたよりになる。
日奈邑六花のように飛び抜けて目立つわけではないけれど、このクラスのまとめ役にふさわしいのは、やっぱりおケイではないか。葉月は、以前からそう思っている。
葉月は、あらためて自分が引っ張ってきた一年生を眺めた。見るからにおとなしそうな子だ。迷子の子犬みたい―そんなたとえが自然に頭をよぎる。
ときおり思いだしたように爪をかんでは、これも彼女の癖なのだろう、ちらちらと腕時計に視線を落とす。紗菜絵に言われるまでもなく、彼女が、犯人の告発なんて大それたことを悪ふざけで思いつくとは、とてもじゃないけど考えられない。
―あれ? 葉月の心に、なんとなく引っかかることがあった。なんだろう。小さな虫刺されみたいな違和感。でも、その正体がつかめない。
「まずは、きみがだれなのか、そこから教えてもらおうかな」
「あ……は、はい」
桂衣子の問いに、一年生が、おずおずと答えはじめる。葉月の違和感は、靴の中に取り残された小石のように、解消されないまま、心の片隅へと押しやられた。