私たちは宿泊を申込み、久我さんと小舎のなかに入った。窓からさわやかな風が虫の声を運び込む。早朝に太郎平小屋を出発して、予定のコースをやり遂げた達成感でいっぱいだった。

私はひと眠りして小舎の外に出た。白髪の主人が、小舎の横で土を掘り、葱をいけていた。

「そうやっておけば、葱も長持ちしますね」

「ああ、枯れないようにね」

義の人が私を見た。優しい目だった。

「山でけが人とか病人が出たらどうするんですか?」

「無線でヘリコプターに来てもらいます。20万円から30万円かかりますよ」

主人はしゃがんだまま、堀のなかに葱を並べている。山小屋の夜は早い。5時に夕食を済ませて、6時には寝る。夜中3時に目が覚めたのでトイレに行く。空が無量大数の星で明るいほどだった。

午前5時半、黒部五郎小舎を出発。三俣蓮華岳を目指す。

いきなり樹林のなかの登りから始まった。さっきまで、すやすやと休んでいた心臓が(急にどうしたんだよ)というようにドキドキしている。

振り返ると、左手に黒部五郎岳が山頂に一片の雲をかけて姿を現してきた。青空をバックにして岩壁に朝の光が当たり、絵ハガキのようだ。

五郎岳の左にすっくと立つ笠ヶ岳。その目の前に伸びやかな双六岳と三俣蓮華岳が並ぶ。

足元に高山植物を見つけながら、さらに登る。

「あ! 穂高だ!」

蓮華と双六の間に突然、穂高岳が姿を現した。這松の向こうから人の声がする。山頂は近い。

三俣蓮華岳の広い頂上には十人ほどの先客がいた。あっちでもこっちでもカメラのシャッターを押しあっている。手前に鷲羽、水晶、雲ノ平、後ろに常念、大天井、燕岳が並ぶ。三俣蓮華岳の名前は、富山、岐阜、長野の三県境を意味していることに納得。

私たちは頂上から下りて三俣山荘に寄り、私は赤電話を借りて川越の妻に電話を掛けた。

「夕べの小屋は電話がなかったけど、元気だよ」

「天気も良いでしょう」

毎日一緒に生活していると何とも思わないが、遠く離れてみると妻に対して新鮮な気持ちが湧いてくることを知る。

「ああ、日焼けがひどくなりそうだ」

妻は家で山の天気予報を毎日見ているに違いない。