大学受験と祖父母との別れ

政裕にとって大学を受験することは既定のことに思っていたが、祖父母も純造叔父も受験には消極的だった。

祖父は高校を卒業したら小学校の先生になるか村役場に勤めて家を継いでくれといった。

政裕たち兄弟を大学に入れることが父の遺言でもあることは兄たちから聞いていたので、祖父もそれを知っていたはずだ。政裕がそれを言ったら結局は祖父も強くは反対しなかった。

政裕が祖父母と生活している間、死んだ父のこと、母も含めて話題になったことがあっただろうか。祖父母はそれを避けていたのかまたは後ろめたさがあったのか、話してくれた記憶がない。

祖父宛てに送られていた父や母の手紙の束を見つけた時、金子の送金や温泉への招待などかなりの頻度で手紙が書かれていたことが分かった。だから政裕の離別には強く反対できなかったのではないか。

純造叔父も父のことで話してくれたことが一度もなかったのはなぜか。父は義弟の純造叔父の面倒は十分見て仕事の指導もしたはずだ。

あとから考えると、デリケートな義理家族の人間関係が普段の生活のなかに隠されていたように思われる。

政裕は兄、郁夫に手紙を出して、受験の進路について相談したら、理学部よりも工学部にしなさいと返事をくれた。兄は卒業後の就職のことを考えていたのだ。美術関係は才能を評価していなかった。

問題は学費と生活費などは誰にも頼れないことだ。国立ならば奨学資金とアルバイトでなんとかなるのではないかと思った。

問題は政裕の学力だ。普段の成績が良くなかったし受験勉強の時間が取れない。それでも全国共通の進学適性試験の結果を見て進学担当の先生から国立一期校の大阪大学工学部なら何とかなるだろうといわれ、願書を郵送した。

一年ぐらいの浪人覚悟は計算に入っていたのではないか。丹波から大阪に汽車で旅行するだけでも心がウキウキしていた。大阪の純造叔父の家に泊まり、阪急電車で試験場がある石橋に通い、工学部機械工学科の試験を受けた。

だが、物理の科目に流体力学などレベルの高い問題が出されて手も足も出なかった。やはり丹波で百姓していた田舎学生には無理な挑戦だった。

当時、国立大学の受験が一期−二期校制度だったのでチャンスが二度あった。兄、郁夫の勧めで生まれ故郷、福岡に近い戸畑にあった二期校、九州工業大学の機械工学科にも願書を出していた。

この大学にはその兄が工業化学科に在学中だった。阪大の結果を見たその足で大阪から戸畑まで夜行列車に乗り試験場にたどり着いた。背水の思いだった。競争率が十倍と知ってこれも駄目かと思った。試験問題は大阪大学ほど難しくなかった。物理がかなり難解だったが英語と数学はできたと思った。

その翌日、数人の教授たちの口頭試問を受けた。

なぜ、兵庫県の高校から遥か九州の大学を受験したのかと聞かれて、政裕は福岡生まれで兄が工業化学科に在学中だと説明した。