日本編
中学から高校まで
家の新築が終わった終戦の翌年、一九四六年、柏原中学(旧制)を受験して入学、その三年後、教育改革で新制の中学と高校になり高校生となった。
片道十二キロほどの自転車通学はきつかったが、何とか高校卒業まで六年間続けた。当時の丹波で中学、高校に通う子の家庭は裕福な農家か商家、または先生だった。親は子が勉強して立身出世することを願い家業の手伝いなどはさせていなかったようだ。
丹波の生活は夏の日照り、冬の寒さ、家事、農業の一切、と通学、重労働の日々だった。
自分の衣類の洗濯もした。たらいに水を入れ、洗濯石鹸をつけて洗濯板の上でゴシゴシ。自転車通学の毎日でズボンのお尻が擦り切れ穴が開く。隣の分家にミシンがあったのでそれを使わせてもらい繕っていた。ミシンの使い方は母が生きている時に覚えていたので役に立った。
“自分のことは自分でする”は政裕の習慣になった。
生活費は大阪で商売を始めていた義理の叔父から毎月受けていたがうまくいっていなかったのかギリギリの生活を強いられていた。
慢性的に動物性蛋白質欠乏になっていたが自転車通学は何とか頑張ることができた。そのお陰か足腰だけは頑丈になった。日曜日や夏休みなどにもっと山奥にある祖母や叔母などの親戚に自転車で出向き、野菜や穀物などもらいに行った。
暗くなった夜道を竹かごいっぱいのお土産を積んで坂道を押しながら帰った。一日仕事だった。
高校を卒業するまでそれを何度繰り返したか数え切れない。行く先々、みんな親切だった。炊き立てのご飯を食べさせてくれた。代わりに農繁期には田植えや稲刈りの手伝いに出向いた。
慣れてしまえばこんな丹波の生活に苦痛を感じなくなっていた。
中学三年のある日、担任の先生に呼ばれ家庭の事情を聞かれた。両親がないことはわかっていたらしい。
奨学資金を受ける手続きをとるよう勧められ教務課に連れていかれた。高校卒業までの四年間、参考書や蛍雪時代などの受験生向け月刊雑誌を買うことができたし、自転車の修理代にも使った。
気象研究のクラブ、気象班
旧制中学三年の時、政裕が孤独な生徒に見えたためだろうか、気象班に入るよう勧めてくれたのは同級生の永井君だった。
気象研究のクラブ、気象班は校内で最も活発なクラブ活動をしていた。これを創設した三年先輩の田原さんはクラブ活動予算の獲得に貢献し、専門書、観測器具、百葉箱などを購入、校庭に露場を確保、毎朝十時の定時観測のシステムを考案し実施した。
観測データを大阪管区気象台と神戸海洋気象台に送っていた。これがどれほど役に立ったかはわからないが、少なくとも班員の研究意識や気象現象に関連した知識をつけることができた。
政裕は休み時間はほとんど教室でなく班室で仲間と話をしていた。居場所を見つけた思いだった。学年を超えた協働で充実度の高い学校生活を送れたのではないかと思う。
高校生になってある期間、夜十一時NHKの第二放送の気象通報を聞き、天気図を作成、翌日校内放送で丹波地方の天気予報をしていた。
このような経験が後々の人生に恩恵をもたらした。新聞の天気図を見ただけでおおよその天気の移り変わりがわかる。