日本編

戦時中の少年時代

数日続いてその話は終わり放免となった。結局、その主は芋泥棒のことには触れず、叱責もなく本を読んで聞かせてくれたのはなぜか。

この話の内容を理解させ、罪を意識させたかったのか。奇妙な経験だった。一体彼は何者だったのだろうか。

一級上の芋泥棒仲間の一人、Mの父が福岡女学院の絵画の先生だった。

政裕の住まいの筋交いにあった彼の家は瀟洒な洋館だった。事件発覚のあと、その洋館の二階にあった広いリノリュウム張りのアトリエの床に仲間はみんな勉強会という名のもとに、三十分ほど正座させられた。座禅のようなものだった。

油絵の強い絵具の匂いがしていた。どうしてこの犯罪がばれたかわからなかったが、何日目かに許された。

その先生が芋泥棒に対する刑罰を課したのだった。この先生は一度だけ姿を現したが、何も言わなかった。当時、一緒に住んでいた政裕の叔母も噂で知っていたはずだったが何もいわなかった。

無言の叱責とでもいうか。政裕は自分で告白した。

一九四三年の夏、警固から下名島町の宅弥叔父の店舗と住居を兼ね備えた大きな家屋に叔母の家族も共々引っ越した。

政裕の兄弟三人を含め実の叔父とその家族、叔母の家族が雑居することになった。そこから警固校に歩いて通った。ある日政裕のことをようやく認めてくれるようになっていた担任の先生に召集令状が来た。

出発の日、軍服を着た先生は将校だった。先生の奥さんが生まれたばかりの赤ん坊を抱いて一緒に別れの挨拶をされた。生徒たちは級長の号令に従い、“気を付け”の直立不動で敬礼して別れた。

そのころ、太平洋戦争は実際には敗色が濃くなっていたはずだったが、軍艦マーチとともにラジオから流れてくる臨時ニュースはいつも赫々たる戦果で敵艦を何隻撃沈したとか、嘘ばかりだったのだ。

真珠湾攻撃の指揮をとった山本五十六元帥が乗った飛行機が撃墜されて戦死したニュースを聞いたのもそのころだった。

新しい住み家では近所に友達ができなかった。そのころの楽しい思い出はない。

なぜか夜になると布団の中でよく泣いていた。みんなは政裕のことを泣き虫だといっていた。末っ子で甘えていたのだろう。兄や従兄弟たちは勉強ばかりしていてあまり構ってくれなかった。

叔父だけは政裕に部品の整理や郵便局に行かせるなど、何かと店の手伝いをさせていた。

丹波への移住と終戦

終戦の前年、一九四四年八月、国民学校五年の政裕は、丹波に移住させられた。

朝鮮の京城にいた義理の叔父、芦田純造から一通の手紙が叔母宛てに届いた。政裕を兄たちと別れさせ一人で福岡での都会の生活から年老いた祖父母(義理)の住む丹波の山奥に送り出す要請の手紙だった。

空襲の危険が迫っているためと書かれていたが実際にはそうではなかった。その手紙を見せられた時、行きたくないと泣いた。

次兄と実の宅弥叔父が同行してくれた。三人で政裕の引っ越し荷物を持ち満員の夜行列車を乗り継ぎ、翌日の夕刻、ようやく福知山線の柏原駅に着いた。途中弁当も買えなかった。空腹と睡眠不足でくたくただった。

バスを降りて暗くなった道を重い荷物を持って三十分ほど歩かされ、祖父母の住む家にたどり着いた。叔父は翌日、兄は数日後福岡に帰っていった。

すべての生活環境が変わった。