世阿弥の言葉はさらに奥深く、目のくらむような高みへと氏信を引き上げていく。
『万能(まんのう)を一心につなぐ』
『心より出で来る能』
技を突き詰めて心に至り、理非を超えた境地を目指しつつ、時には生々しい見物衆との駆け引きを語り、そして、その末にこう記す。
『初心忘るべからず』
はるかな高みに至ったその頂で、初心を忘れまいと思えるならば、能の上達にはまさしく果てがないだろう。そうしてそのような者こそが名人上手の名にふさわしい。
この教えに触れることができる仕合わせに、氏信は心から感謝した。
あるときはまた、元能が『三道(さんどう)』という伝書を見せてくれた。
「これはな、能作についての教えなのじゃ、わしにも能を書いてみよと仰せのようじゃが、わしには兄上ほどの筆の才はなくてな、弥三郎なら役に立てられるのではないか」
そんなことを言いつつ見せてくれたその書は、実に驚くべきものであった。
まさしく元雅に倣(なら)って自分も能を書いてみようとしていた氏信にとって、そこには具体的な能作の秘訣が惜しげもなく盛り込まれ、それ故に骨身にしみてわかるものの、同時に自分の足りない部分をいやというほど暴き立てられるような気がして、読みながら心中血が滲んでくるような代物でもあった。
種、作、書の三から成るゆえに三道という。
種は能の素材となる人体の選択、作は序破急五段を基本とする能の構成法、書はそれぞれの段に書くべき言葉の選び方。これだけでも氏信にはありがたい教えである。このように分けて述べられることで、己のなすべきことが明確に見えてくる。
三体もよくわかる。老体(ろうたい)、女体(にょたい)、軍体(ぐんたい)の違いと、それから派生していく人体(にんたい)の数々。
老体に当たる脇の能は、神が出現する祝言の能である。女体は世阿弥が最も重視する幽玄の中心であり、種となる色とりどりの人体を具体的に列挙してある。軍体は源平の名将を描くものだが、さらに放下(ほうか) という遊狂の僧体、砕動(さいどう)の鬼までをその末風(まっぷう)とする。
ここまでで、世に名を得た能のほとんどが含まれていると言っても良い。
しかし、どうやってそれを実際の言葉にすればよいのか、さらに開聞(かいもん)、開眼(かいげん)というくだりになると、途方に暮れるばかりである。
そしてその後に記された、手本とすべき能の数々に圧倒され、自分には能作など無理なのだと諦める一歩手前まで追い詰められてしまったのである。