梅の香
浮舟は、横川の僧都に泣いてすがって、尼にしてもらった。それでも、折に触れて、以前のことを思い出す。とりわけ思い出されるのは、匂宮のことである。
浮舟「袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春のあけぼの」
ここで、「袖ふれし人」とは誰のことで、その人は何をしたのだろうか。諸本は、古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれしやどの梅ぞも」(古今・春上読人知らず)を掲げ、そのうえで、「袖ふれし人」について、小学館本の現代語訳は「袖を触れて私ににおいを移したお方」、岩波本は「袖にふれた人(匂宮)」、新潮本は「袖をふれた人(匂宮)」としている。
「袖ふれし人」が匂宮であるとして、「袖」とは誰の袖か、「香」はどこからどこへ移ったのか、判然としない。
古今集の注釈書をひもとくと、「色よりも」の歌について、新日本古典文学大系5『古今和歌集』(岩波書店、一九八九年)は、「色よりも香りがすばらしいと思われる。誰の袖が触れてその袖からの移り香が薫るこの家の梅なのか」、新編日本古典文学全集11『古今和歌集』(小学館、二〇〇六年)は、「わが家の庭前の梅は、色よりも香りこそ素晴らしく思われる。いったいどなたが袖を触れて、その移り香を残した花なのだろうか。梅の芳香を人が移した香りとしているところがねらいである」とする。
すなわち、これらの解釈によれば、香りは、袖から梅の花に移されたのである。
古今集の「色よりも」の歌のこのような解釈を前提にすれば、浮舟の「袖ふれし人」の歌は、「袖が触れて袖の香りを梅に移した人(匂宮)の姿は見えませんが、その人の香りかと思うほど、花の香りが匂う春の曙です」という納まりのよい解釈にたどり着くことができる。ようやく出家することができ、この世を捨てたはずなのに、ふと恋しい人のことがよみがえる、せつない女心である。