太平洋戦争の思い出
昭和19年のことである。小学校2年生の私は、空襲のとき、高崎の実家の庭で防空壕に入ったり出たりして遊んでいた。「ドーン、ドドーン」という音を何回も何回も聞いた。
その音は千葉県沖から九十九里浜に向かって、米軍の艦砲射撃が行われているのだと、父が説明してくれた。高崎から九十九里浜といえばかなりの距離だが、かすかだったがはっきり聞こえた。十勝岳噴火の音は、あのときの音に似ている……。
父の弟はニューギニア戦線に参加し、大変な苦労をして帰国した。母の兄はサイパンで、弟二人はフィリピンと沖縄で戦死した。現在82歳の母は、戦地から送られてきたあの当時の兄弟からの便りを、いまでも箪笥のなかに大切に保管している。
昭和20年8月15日の終戦の数日前には、前橋や高崎も空襲にあって、多くの民家や神社まで焼けた。あのときに私も死んでいたら、その後の45年の人生はなかったはずである。
噴火の音が命のありがたさを揺り起こしてくれた。一歩一歩踏み出す足が、砂礫のなかにめり込む。富良野岳方面から吹いてくる風がひんやりと心地良い。
最後の急登を終えて、2077メートルの山頂に着いた。素晴らしい展望だ。島さんが私のほうに接近してきて、教えてくれた。
「あれが大雪山ですよ!」
藤さんも言葉を添えた。
「トムラウシがよく見えますね」
若い二人は去年も大雪山に来たが、雨だったのでやり直しにきたのだ。今年は年の離れた私も誘ってくれた。
島さんは私たちから離れて、さっきから別なパーティーの三人と話し込んでいる。
私たちのところに戻ってくると、
「方言がそっくりだったので、話してみたら妻沼の人だったんです。出身高校も太田高校で僕と同じなんですよ。驚きました」
と言った。群馬県の太田と埼玉県の妻沼と言えば、利根川を挟んですぐ隣だ。遠い北海道の山のてっぺんで、同じ高校の出身者と巡り合うとは、奇遇である。太田高校出身の白いハンチングの良く似合う男は、向こうで弁当を食べている少し年配の人を紹介した。
「あの人も一緒に来たんですけど、日本百名山がこれで87座目なんだそうです。凄いですよね」
藤さんと私は87座目の人に近づくと、その年配の人が語り始めた。
「あと4年で定年だけど、それまでに百名山を終わりにしたいと思っているんです」
山に行くと必ず百名山のことが話題になる。深田久弥の残した名著のことは、21世紀になっても山好きの人たちの間でいつまでも語り継がれるに違いない。
ガスってきた。
頂上には1時間ほどいて下山開始。美瑛岳の下のほうから蟻のように九人のパーティーが歩いてくる。小さくレストハウスの駐車場が見える。
犬ころが尻尾を振って主人の帰りを待つように、スカイラインGTSTが私たちを待っている。
私たちが行かなければ、あの車はいつまでもあの場を離れないのだ。そう思うと無性に車がかわいかった。