大人の世界へ

後日、そのフロアに、その男性の妻が事務職として共働きで在籍していることを知った。

物静かで、控えめな印象の五つ六つ年上の女性が、部屋の隅の方の席で仕事をしていた。高校を卒業したばかりの小娘の自分から見れば、引け目を感じるぐらい格段に大人の女性だった。すらりと背の高い二人はお似合いのカップルだった。この女性と、きちんと手順を踏んで結婚し、共に生活している男性が、その時十八歳の少女には遠い存在だった。

けれども自分に向けて明るい顔で笑いかけられた時だけは、一握りの幸せを感じていたような気がする。この後、原田康子の『挽歌』を連想させるようなドラマが始まっていくとは、全く想像もしなかった。

しかし三年間の自分の在職中に、男性の妻は退職し、夫婦は離婚。私はその男性との結婚を考えるようになっていった。アシスタントをするようになってから、仕事の出先で食事を共にしたり、お茶を飲んだりする機会があった。どれくらいたった頃からか、会社の仕事を終えてから、仲間と一緒に大勢で食事に行ったり、当時流行のビリヤードに行ったりするようになった。

そして、仲間と別れた後、二人だけでコーヒーを飲みに行くようになった。そしていつからか、退社後二人だけで喫茶店で待ち合わせをするようになった。思い出すのは、大阪天満橋の近くの喫茶店だ。今思えば会社からも、自宅へも随分不便な場所で会っていたものだと思うが、多分知人に会う可能性が低い場所を相手が選んだのかと思い当る。

冬場に、地下鉄天満橋駅を降りて改札口を出ると、暗い土佐堀通りは木枯らしが吹いていて、枯葉が舞っていた。襟を立て、風に向かって前のめりになって通り沿いを歩いていった。もう来ているかなと思いながら、店の前まで行き、ドアベルの付いた扉を押した。

ベルが鳴って、暖かい空気と、引き立てのコーヒーの香りが包み込むように迎え入れてくれた。店内は当時人気のエンリコ・マシアスやアダモのシャンソンが流れていて、舌足らずの日本語を交え、甘く歌っていた。毎日会社で会っているのに、退社後もそうして逢瀬を重ねていたあの頃、そこは一番居心地のいい場所だった。