「俺のせいなんだ」

もしも多恵の言葉が本当だとするなら、今のこの姿がもっとも強い思いを宿した姿ということになる。

肌の感じから察するに、おそらくは三十代後半から四十代前半だろうか。この年代で、わたしの身になにが起きたのか。言い知れぬ不安に襲われていると、庄兵衛がおもむろに語りはじめた。

「人生は思い通りにならないものですが、そのひとつの原因に、自分と他者とが分かりあえると勘違いすることが問題なのだと思います」

「どうしたんだ、急に」

「人の悩みの種は、いつの世も『人』ですよね。恋愛の好いた惚れた、職場での上下関係、あるいは家庭内不和。それらは人を狂わせるには十分過ぎる問題です」

「たしかに、人間関係が一番たち悪いな」

こくりと頷く代わりに、庄兵衛は櫂を漕いだ。

「ええ。人は根本的に違います。おなじ国に生まれ、おなじ言葉を喋り、おなじものを食べても、分かりあうには程遠い」

「夢も希望もないな」

「夢も希望もないのです。そういうふうに創造したのは神様ですから、文句なら神様にお願いします」

そこまで言われたら神も不憫だな、なんて神の友人みたいなことを想う。

「人と分かりあえないと腹を括(くく)るほうが、人生は思い通りになるのか」

「そこまでは言いません。ですが自分の人生を生きているつもりが、気がつけば、だれかの人生を生きてしまっている。そういう悲劇は、存外、ありふれているような気がします」

庄兵衛のありがたい説教が始まった。そう思う一方で、興味を持ちはじめている自分もいた。義理と人情で生きる江戸時代男の説教だ。こんな機会は滅多にない。

「はて。どういう意味だ」

「いいですか。人の世には流れがあり、様々な欲が渦巻きながら常に変化しています。強大でとても抗えない流れですが、そこに叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)してはじめて、人間には意志が宿るのです」

わたしはありがたい言葉を反芻(はんすう)する。だが真意をいまいち掴みきれない。

「もうすこし平易に話せるか。高尚すぎてついていけない」

「諌さんがどこかを歩いているとしましょう」

急なたとえ話が始まった。

「諌さんはいつのまにか集団のなかにいて、その方々と一緒にどこかに向けて歩いているわけです。まわりには大勢の人がいて、みな諌さんとおなじ歩調で歩いています」

その場面を想像してみることにした。わたしが思い描いたのは軍隊のような、一糸乱れぬ大行進だ。ざっざっと雑踏が耳に木霊し、人いきれが肌をくすぐる。

「続けてくれ」

「諌さんは自分がなぜそこにいるのか、どこに向かっているかも分かりません。ですが集団のなかはすごく安心なわけです。まわりの人たちと分かりあえそうな気がします。歩幅も、歩く速度も、着ている服も、履いている靴も、なにもかもが違っても」