東から西へ移動する東京

東京と言う都市は、繁華街が多くて何処が中心か分からない、範囲が広すぎて何処まで東京なのか分からない、平地と台地が入り組んでいて複雑すぎて分からない等と言われます。

地方から上京する人も、外国から日本を訪問する人も東京には戸惑うのです。確かに大阪は平野だし、京都も奈良も盆地だし、しかもその範囲は限られいて、都市の全貌を掴むのに東京ほどの苦労は要りません。パリ、ロンドン、ベルリンなどの欧州諸国の首都は、中心が明確であるし領域は纏まっていて、都市の全体図を把握するのに時間はかかりません。

東京が他の大都市と異なった複雑な都市に発展した原因は、東京の土台となった江戸の町が、町人ではなく武士階級によって更地の上に造成された新都市であったことでした。

更に、江戸が造成された場所が、武蔵野段丘の境目で、台地と平地を共に含む地勢であったことも大きく影響しています。西洋や中国では都市全体を城壁で守り、城壁内で秩序ある街作りをしましたが、昔の日本では戦闘に参加するのは武士達だけでしたから、武士たちは城内に立てこもり、町人たちは城外で自由に町作りをしました。

ですから、江戸には軍事上の都市計画はありましたが、近代的な都市計画が無かったのは当然でした。その結果、東京が江戸から引き継いだ都市の構造は、江戸城を囲む円環状の町々と、日本橋を起点とする放射線状の町々という、二極構造で成り立っていたのです。

そして明治以降、この二極構造の町々は、時には重なり合ったり、時には連携したりして成長したので、更に複雑になりました。しかし、二極構造を持っていたが故に、東京という都市は、大きな発展のエネルギーを持つことが出来たとも言えます。

現在の東京の山手線は、江戸の円環状の町と放射線状の町を繋いで回っていますが、開発理論によりますと、鉄道や道路は直線状(リニアー)のものより円環状(ループ)の方が開発効果が格段に大きいと言います。そしてループの直径が大きいほど、輪の中に大きな発展エネルギーが蓄積されると言います。