田端の丘と馬込の丘に文士達集う

田端の丘

道潅山の北の端が田端の台地です。

東北新幹線は東京駅を出ると地下に潜り、地下の上野駅を出ると再び地上に浮上します。すると忽ち高架鉄道となり乗客は地上高く持ち上げられます。目の前には田端駅越しに田端の丘が迫ります。田端は上野の山から続く尾根の外れです。

荒川方面から南下する小台大通りは、田端駅の北端で跨線橋の田端大橋を渡り、田端の丘を深く切通した動坂を下り、本郷方面に向かいます。切通しの深さから田端の丘はかなり高いことが分かります。

この高い丘に明治から昭和初期にかけて画家や文士が集まりました。

この丘から低地の谷田川通りにかけて沢山の文化人が住んだり、交流した足跡があります。田端駅の近くに、それを記録保存している田端文士村記念館があります。

北区の田端の丘に集った画家、文学者、評論家、陶芸家などには、小杉放庵、正岡子規、室生犀星、芥川龍之介、平塚らいてう、サトウ・ハチロー、瀧井孝作、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明、川口松太郎、浜田庄司、小林秀雄、中野重治などがいます。

馬込の丘

ほぼ同時代にもう一ヶ所、文士や画家が集まって暮らした丘が大田区の馬込ににありました。文士達は谷間よりも高台が好みのようで、馬込の文士村も丘の上にあります。

JR大森駅からやや急な坂を上ると起伏のある丘があります。文士たちはこの丘のあちこちに分散して居を構え、互いに訪ね合って、あるときは真面目に文芸論を、あるときは酒、麻雀、ダンスで生活を楽しんだようです。

馬込文士村には、明治末から集まり始め、大正末に尾崎士郎が加わると、盛んに文士達を勧誘したので、また大正大震災で焼け出されたこともあって、大勢の文士達が住み着きました。

大森駅から丘に上る途中に山王会館がありますが、その館内に馬込文士村資料展示室があり、馬込文士村に住んだ文士、詩人、画家たちの活動記録が展示されています。

山王会館の門の脇に「馬込文士村散策のみち」という大きな看板が掲げてあり、文士達の名前が住んだ場所に書き込んでありました。

主な名前を拾うと次の通りです。尾崎士郎、室生犀星、石坂洋次郎、山本有三、萩原朔太郎、倉田百三、佐藤惣之助、宇野千代、稲垣足穂、広津和郎、小林古径、川端龍子、北原白秋、三好達治、山本周五郎、川端康成、和辻哲郎、徳富蘇峰、小島政二郎、倉田百三など。

本郷の文士達には明治時代に活躍した人が多く居て、田端、馬込の文士達には大正、昭和に活躍した人が多く居ました。文士村の作家や詩人や画家達は、互いに交流し切磋琢磨し、そのため文士村の間を渡り歩いた人もいました。

明治以降の日本は、西欧文明との力の差を乗り越えるのに悪戦苦闘しましたが、軍事と産業だけでなく、文芸の世界でも西欧に対抗し、凌駕しようと格闘した場所が文士村だったのです。