日比谷公園は見事な和洋折衷
和洋折衷は日本が近代化で採った手法で、明治初期の頃、見よう見まねで建てた建物には、和風と洋風を混ぜた何とも奇妙なものがありましたが、建築ではやがて純粋な洋風スタイルが支配的になりました。
しかし、実用的な建築物と違って人間の情緒にかかわる公園はそうはいきません。特に、庭造りに長い歴史がある日本では、洋風公園の造園はすんなり受け入れらず、日本風への拘りが強かったのです。
明治政府は、法律、制度などソフト面と共に、建物、公園などハード面でも西洋式のものを導入しようと懸命でしたから、日本最初の公園である日比谷公園は、当初は西洋式を目指しました。最初の案は西洋建築家、辰野金吾の手になる幾何学的な設計でした。
しかし、途中から林学者で造園家の本多静六のドイツ式公園に変更になりました。ドイツ式公園には、日本の伝統造園のように自然風景を取り入れたところがあったからだと言われています。
皇居の日比谷濠に近い日比谷公園の隅には、嘗てお濠の一部だった場所を取り込んで心字池を造り、祝田通り寄りの公園の半分も和風の池です。反対側の日比谷通り寄りの半分は、長方形の広い芝生の庭園があり、噴水や西洋花壇があって洋風です。
西洋音楽を聴く野外ステージ(小音楽堂)があり、洋食の「松本楼」などは、日比谷公園に洋式を取り入れた証拠です。明治の洋風社交場、鹿鳴館は日比谷通りを隔てた向かい側にありましたから、鹿鳴館でダンスを踊った人々は、日比谷通りを渡って洋風の日比谷公園で寛ぐのに丁度良かったことでしょう。
東京の公園の多くは、江戸時代の大名屋敷の庭だったものなので、ビル街からのアクセスは良くありませんが、日比谷公園はオフィス街と官庁街の間にありますから、ウィークデイには昼休みのサラリーマンで賑わっています。