大阪での単身赴任

ところで、この常識のない元新聞記者の富山部長の行為は、当然経理当局や営業部の担当役員にも知れ渡っていた。しかし、自己改革のできない哀しい社員として、彼らには相手にされていなかった。

また、社内では、富山部長を生ゴミと言う者があったが、達郎は彼を生ゴミ以下だと考えていた。何故なら、生ゴミならまだ再生がきくが、もはや彼を再生させるのは百二十%不可能だったからだ。

部長がこのような体たらくだったから、その下に属する第一から第三までの各課長には、逆に精鋭が配置されていた。人事当局も営業部担当専務も、そのあたりには、当然のことながら十分に配慮していた。

達郎の所属する営業第二課の梶本課長は頭の回転が速く、猛烈なやり手だった。その営業手腕は、大阪支社内はおろか、東京の本社内にまでとどろいていた。次の定期異動では、そのまま大阪支社営業部の部長に昇格するか、東京本社のしかるべき営業セクションの副部長クラスに抜擢されるものとみられていた。

直属の課長が、仕事の上ではこのような好人物だったから、その意味では達郎もやりがいがあった。課長のスピードについていけば、自分の道もこれまで以上に開ける。

それに、東京の人事部長の話では、梶本課長から是非とも優秀な社員を部下の課長代理として、大阪によこしてくれ、という要求があったので、同期の中でも一番成績の良い、達郎が選ばれたということだった。だから、梶本課長の期待は裏切れなかった。

達郎は、課長との良好な人間関係の構築と円満な遂行に全力を挙げて取り組んだ。だから、とても愛人を作って浮気をするなどという余力はなかった。

そうはいっても、単身赴任の生活もこの四月が来れば、三年目を迎えるので、そろそろ当初の目的を達成しようかと思っていた。最近では、今の単身赴任という恰好の条件を逸したら、一生浮気なんかできないのではないか、と思うようにさえなっていた。少し弱気がみえ始めていたのである。

大阪に転任して以来、妻智子との夜の交渉は半年に一回ぐらいの割合だった。元々智子はそれに関して、興味や欲求を抱いていなかった。それに、こどもも好きではなく、産みたがってもいなかったので、この点において、智子にはさしたる欲求不満は蓄積されていないようだ、と達郎は認識していた。