当時、他大学から入局した私には、先輩や同期生も知人もおらず、孤立した存在であった。よそ者の負い目を跳ね返すには学問的実績をいち早く上げるしかなく、騒然たる雰囲気の中で三か月に一本のスピードで論文を書きまくった。
学生らは博士号取得のための学位制度にも反対していたため、学位論文の審査もままならず先延ばしされていた。ある日突然、秘密裡に大学から離れた市内のホテルで学位審査が行われる事になったのである。
十数名の学位取得予定者がホテルの一室に集められ、ひとりずつ審査を受けることになった。私の二人前まで審査が進んだ時、突如、場所を突き止めた全共闘の学生たちがゲバ棒を手に押し入り、学位制度粉砕を叫んだ。
審査前の私たちも学生らと向き合い、押し問答となった。怒号渦巻く中、学生らにこう言い返したことを覚えている。
「ここ五年間、こつこつためたデータをもとに書き上げた論文だ。これを放棄せよと言うなら、君たち医学生もいったん退学して再度医学部を受けなおせ、そうすれば学位放棄に応じよう。それがいやなら応じない」
入局して六年目、医局をまとめる医局長補佐に任じられた。医局長のもとには北海道各地の病院から若い医師の補充を求める要請が相次いでいたが、新入医局員不足のため、それに応える事ができない状況にあった。
若手医師の補充困難を伝えるため、医局長と二人で北海道各地の病院を訪ね、お詫び行脚をした。釧路の大病院の先輩医長に、若い医局員の補充の困難さを丁寧に説明した後、医長、医局長、私の三人で夜の酒場で慰労会をやった。
過重負担に耐える医長は現状を一応受け入れはしたもののアルコールが回るにつれ、怒りを露わにした。「どうしても補充を送れないなら、そこの釧路川にでも飛び込んで謝れ」と酒の勢いで私に言い放った。
「飛び込んだら許してくれますか」。
「許す」
の問答の末、私はホステスらの制止を振り切り、酒場の階段を駈け降り、夜の街を釧路川に向かって走り、一気に飛び込んだ。
五月下旬とはいえ、釧路川は雪解けで水かさを増し、氷塊もところどころ浮いていた。冷水に縮み上がりながら川面のあちこちに突き出る杭のひとつにしがみついた。
その瞬間、二週間前に生まれた長男の顔が頭をよぎった。