無給医時代
警察官との行きちがいハプニングにはもう一件あった。
医師になってまもなく、医師免許証を紛失してしまい、交番に紛失届に行った。
「医師免許証をなくしたので紛失届に来ました」
「イシヤさんですか」
「違います。医師免許証です」
「だから石屋さんでしょう」
「ストーンの石ではなくてドクターの医師です」。
このおまわりも私の坊主頭に惑わされたかもしれない。駆け足通勤を知った先輩医師から乗りこなした三菱コルト600という中古小型車を譲り受けた。
相当使い込んでいて、運転席の床には穴が空き、走らせると泥水が車内にはね上がってきた。常時オイル漏れがあり、ガソリンとオイル交換を同時にやらねばならなかった。
三〇㎞近く走ると必ずパンクした。ワイパーが故障しているため、雪の日は柄の長い毛ブラシを窓から出して右手でウインドウの雪を払いのけながら走った。
ある大雪の朝、アパートの前に停めていた車が突如なくなっているではないか。大型除雪車が早朝、道路の除雪作業を行った際、掃き出された雪もろとも道路外へ放り出され、埋もれてしまっていたのだった。
かくして無給医時代のわがマイカーライフは終わりをつげた。こういう貧乏生活は新米医師が一度は通らなければならない道だという認識があったから我慢できたかもしれない。
私の無給医時代に始まった医学生らのインターン制度廃止運動は、やがて医局講座制のあり方を問う学園紛争へと発展していった。無給医局員の存在が五十年以上も経った今なお存在する事に正直驚きを禁じ得ない。
「飛び込んだら許してくれますか」─若き日の短慮暴発─
名大医学部を卒業し北海道の病院でインターン研修を終えた私は、北大医学部小児科学教室(いわゆる小児科医局)に入局した。
当時はインターン制度反対運動が先鋭化し、教授を頂点とする医局制度のあり方が問われ始めた時代だった。医局講座制反対運動はやがて全学の学生運動に広がり、大学構内では全共闘と称する学生達がバリケードを築き、校門を封鎖し、機動隊とも衝突していた。
そのうち、路線対立による内ゲバ(組織内での対立から生じる暴力抗争。ゲバはドイツ語ゲバルト[暴力]の略)も発生するようになった。
北大正門前のクラーク会館前では主義主張を異にするヘルメット姿の学生どうしがゲバ棒を手に、タオルで顔を隠してにらみ合い、投石騒ぎを起こしていた。
そういう状況下で後輩の医師たちが入局を拒否したため、深刻な医局員不足をきたし、大学の診療や研究活動は機能不全に陥り、一時は教授まで当直をせざるを得ない状況となり、我々下っ端の若い医局員は大車輪で走り回っていた。