「俺のせいなんだ」
「すこし休ませてください」
後ろから聞こえる声には疲れが滲んでいた。たしかなことは分からないが、庄兵衛はかれこれ二時間ほどは漕ぎ続けているはずだ。もしかしたらもっとかもしれない。なかなかこの仕事も楽ではない。
「すまないな、こんなわたしに付き合ってくれて」
「いえいえ、仕事ですから」
そこには矜持(きょうじ)のようなものが垣間見えた。今わたしたちがいる場所は世界の墓場のような黒で覆われている。人の世にあまねく絶望が、この海のような深淵の黒を湛えていても、わたしはきっと驚かない。
「ところで」
わたしはさっきの話を蒸し返す。
「庄兵衛は聖書を読んだことがあるのか」
「聖書、ですか」
「ああ」
さっきの神様の件に引っかかりを覚えた。神様が自分の形に似せて人の形を作ったという話は、たしか聖書が起源だったはずだ。
「庄兵衛は、ずいぶんと教養があるんだな」
皮肉混じりに伝えると、庄兵衛はすぐさまそれを否定した。
「教養なんてそんな。たまたまです」
「庄兵衛の生きている時代にも、聖書があるのか」
「ええ、もちろん」
わたしはしみじみとした感慨を味わった。聖書が世代を超えて読み継がれていることは心得ていたが、こうして確証が取れるのは実に面白い。ある種の興奮が脳内を駆け巡る。過去と現在が繋がる瞬間は、まさに浪漫というものだ。こんな感動があるからこそ、考古学という分野がなくならないのかもしれない。
「では物知りな庄兵衛に質問させてもらおう。聖書に出てきた知恵の樹を覚えているか」
「私の記憶が正しければ、人類最初の人間であるアダムとイヴが、その知恵の樹になるリンゴを食べて、エデンの園を追放されたとか」
振り返ると、水面を眺める庄兵衛の覆いがゆれていた。きっと覆いの下で自慢げになっていることだろう。
「その通りだ。そんな大事な知恵の樹だが、生命の樹と供に、エデンの園のどこに置かれていたか覚えているか」
「置かれていた場所、ですか」
「そうだ」
庄兵衛は答えを探すかのように動きを止め、忌々しそうに呟く。
「いえ、分かりませんね」
「じつはな、知恵の樹も生命の樹も、エデンの園の中央に置かれていたんだ」
「まんなか、ですか」
「そうだ」
これが昔から不思議でならなかった。だが庄兵衛は肩を掻きながら気のない返事だ。
「それが、どうしたのですか」
その反応も間違っていない。だがわたしが強調したいのは、これは神の御技だということだ。そこに意味を求めてしまうのが、人間というものだろう。
「不思議に思わないか。なぜそんな大事な樹を、神様はエデンの園のまんなかに設置したんだろうってな。これがずっと気になっていたんだ。そんな目立つところに置いているなんて、まるで知恵の実を盗んでみろと言わんばかりだ」
「たしかに、そうですね」