そもそも猿楽の起こりは遠く仏在所、天竺(てんじく)であるとも言われる。釈迦の説法を妨げようとする外道の輩(やから)の気を逸らすため、後戸(うしろど)の前で演じたものが始まりであるという。
あるいは神代のこと、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に閉じこもったとき、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が舞を舞ってお慰めした。
そのような昔から歌と舞は人の心を慰め和らげてきたのである。聖徳太子の御時、太子にお仕えした秦河勝(はたのかわかつ)が六十六番の猿楽を奉じたが、それを三番にまとめたものが今に伝わる式三番(しきさんばん)、翁なのだという。
そして弥三郎の属する円満井(えんまんい)座は河勝の流れを直すぐに伝える、猿楽の最も古い家柄であった。円満井座は大和猿楽四座の一として、翁猿楽をもって興福寺に長年仕えてきた。
能は近来起こってきた流行(はや)りの芸能であり、猿楽にとっては翁こそが本分なのだ。翁は神聖なものであって、女人が介在する余地は無い。
翁を演ずる大夫は煮炊きの火まで別けて俗気を遠ざけ、心身を清めて舞台に臨むのである。翁の具体的な手順に考えが及んだところで、弥三郎は軽く身震いして心を逸らせた。
そのことは好奇心で弄ぶべきものではなく、然るべきときに思いを深くして専一に習うべきなのだ。今はそのときではない。その代わりに弥三郎が思い浮かべたのは、加茂(かも)の御社のことであった。
秦河勝からの連想で、加茂の御親(みおや)神は元、秦氏の女であるという伝承を聞いたことがあるのを思い出したのだ。
あるとき加茂川の上流から流れてきた一本の矢を拾い上げ、家に持ち帰ったところ女は懐胎し、男子を生んだ。その子が天に上がって別雷(わけいかづち)神となり、また母も御親神となって加茂の両社に祀られたという。
水はすべての生命の源であり、別雷神は空の水を司る雷神だ。雷は雲を呼び、水は雨となって山野に降り注ぐ。山野を潤し、山から湧き出た水は川となり、その流れが田畑を潤し、生き物の命を養う。
水は海に注ぎ、雲となってまた雨を降らせる。稲穂に滴る露の中にも神が宿っているような、厳かな気配を感じつつ、世界の命の巡りに思いを馳せる。
御手洗(みたらし)に集う清らかな乙女の姿を思い描き、その面影がなぜかあやめと重なって、弥三郎は人知れず顔を赤らめた。