第二話 東日本大震災物語
2
平成国際大学の卒業式と入学式は、 会場となる体育館の崩壊の恐れがあるかもしれないということで中止になった。
また、この時期の高校生の春の全国大会が次々と中止になり、女子硬式野球の全国高校選抜大会はどうするのかと堀事務局長に相談したところ、
「今のところ、大会は行う予定です」
といういつもながらの元気な声が返ってきた。
「堀さん、実は関東の方は、今回の地震で交通機関が麻痺し計画停電などで学校は休校しています。ですから、女子硬式野球部は選抜大会直前まで練習ができない状況なんです。関東は他の競技の全国選抜大会がほとんど中止になっていますし、今回は未曾有の大地震なので、中止にしていただけないでしょうか」
と、地震後、時折頭の中が揺れることがある私は、その揺れているような感覚で右記のことを再三申し上げた。
大会の開催にあたって紆余曲折はあったが、最終段階で堀さんから関西・西日本のチームだけでも大会を実施するという表明があり、致し方ないと思っていた1時間後、
「先生、先ほど主催している丹波市の教育委員会から連絡があり、中止と決定しました。ですから、すでに作っているプログラムを送ります。残念ですが仕方ありません」
一転して、第12回全国高等学校女子硬式野球選抜大会は史上初めて中止となったのである。
またまた、大地震後から続く頭の中のゆらゆらが始まった。
今まで生きてきた中で、これほどまでの揺れを体験したことがなく、いつまでも頭の中が揺れ続くとは思っていなかった。
震災後、福島第一原発の爆発による放射能を避けるため、福島県双葉町の住民の方々が埼玉県・さいたま市のさいたまスーパーアリーナに集団避難されているニュースが流れていた。
(故郷を追われ、大変な思いで埼玉に来られたんだなあ……。)
その矢先、なんと加須市が3月30日と31日に分け、この集団避難されている双葉町の住民と町役場を加須市にある旧県立騎西高校へと移転することになり、加須市双葉町支援対策本部が立ち上がったのである。
この受け入れに加須市内では支援の輪が広がり、食品会社「キサイフーズ工業」は、同校から近い場所にある社員寮を提供。市内うどん店で作る「加須手打うどん会」はうどんを提供。加須市名物伝統の手描き鯉のぼりの制作で知られる「橋本弥や きち喜智商店」3代目の橋本隆さんは双葉町章を描いた手描き鯉のぼりを制作していた。
これを知った私は、地震で自分の頭の中がいまだ揺れている以上に、腹の底からぐらぐらとしたマグマのような熱いものが私の胸の近くまで上り、思案していた。
―― 双葉町の方々に自分ができることは何だろう……。
津波が襲ったあとの瓦礫の山々と、広島の原爆のあとの廃墟と瓦礫の姿が、私の頭の中で重ね合わさった。私は双葉町の方々に何をすべきだろうか。
悶々とした感情を持ちながら自宅に戻った瞬間、
「そうだ! 加須市は鯉のぼりの街、私の出身地の広島カープのシンボルは『鯉』だ。ということは、広島カープと鯉のぼりをつなげた野球教室をやろう!」
と、昨年一緒に香港ナショナルチームの指導に行ってもらった広島カープの元選手、小早川毅彦(こばやかわたけひこ)さんを紹介していただいた、NHKの村岡孝彦さんに相談した。
「村岡さん、実は加須市に避難されている双葉町の子どもたちのために、小早川さんに野球教室を開いてもらいたいと思っているんです。加須は鯉のぼり、広島カープも『鯉』なので、鯉つながりで子どもたちを激励したいんです!」
すぐさま、
「先生、それは素晴らしいですね! 是非小早川さんに連絡をとってください」
と、私は小早川さんに連絡をし、快諾を得た。
そして、いつもの行きつけのお寿司屋さん「山銀」のカウンターでいつものビールを飲み、さらに地震で頭の中が揺られながら、何かと女子硬式野球に関してご相談申し上げている野本克夫歯科医院長にこの企画を伝えた。
「濱ちゃん、それはいい企画だよ。すぐに市役所に伝えよう!」
と、市役所に連絡をしていただき4月6日(水)午後1時半に行うことが決定した。3月30日、31日に震災で集団避難している住民や双葉町役場が移転して、加須市役所は大忙しの体をなしていた。そんな中でも、加須市スポーツ振興課の名物課長である小室金弥さんは、今回の企画に対してこころから応援をしてくれた。
素早く、小室課長と私で「加須鯉のぼり・広島カープ激励野球教室実施要項」を作成し準備にとりかかった。
その準備中に何かと小早川さんと打ち合わせの連絡を取っていた際、小早川さんの奥様が電話に出られ、奥様自身が1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災に遭遇された体験がおありになり、このたびの企画に大変ご尽力を賜り、集団避難されている双葉町の幼児から小学校低学年のお子さんたちに文房具を贈呈されたのである。
なお、下図がそのときの実施要項である。