第二章 妻へ 1
高坂森蔵がチャイムを鳴らすと、しばらくしてから、
「どちら様でしょうか?」
と部屋の中から男の声がした。
「チラシを見て来たんだけど」
「ご予約はされていますか?」
「してねえけど。予約しないとだめか?」
「普段は予約制ですが、空いていますのでだいじょうぶです。少しお待ちください」
五分ほど経って「いつまで待たせるんだ」と言おうとしたとき、ドアが開き、中から背が高く細身の背広を着た男が現れた。
高坂は、三十年勤めた会社が早期退職を募集したのを機に、定年まで五年を残して退職した。会社が文房具を扱う商社だったことから、退職金で自宅を改装し、妻とともに文房具店を営んだ。
自宅が小学校の近くだったことが幸いして、食べていけるだけの売上があった。
それでも、七十歳を前にして仕事がきつく感じるようになったことで、店を閉めることを決めた。
高坂が会社勤めをしていた最後の年に、同じ課の部下から、「病院で余命宣告をされた」と打ち明けられた。
その部下は、会社の女性社員に、「困ったときに父親に相談したことは何か」といったことを訊いて回っていた。
部下たちがしてくれた高坂の退職祝いの二次会の居酒屋で、その部下と隣の席に座ったときに、その話になった。
自分が亡くなったあとにメッセージを届けてくれる業者があって、まだ小学生の娘のことが心配で、亡くなったあとも悩みの相談に対応するためだったようなことを言っていた。
「『父親に相談したことは記憶にない』がほとんどでした」
寂しそうに話していたことを今でも覚えている。
告別式には高坂も臨席したが、娘と思われる白いブラウスを着た少女が俯いて泣いている姿を見たときに、さぞかし無念だっただろうと胸が痛くなった。
高坂には子どもはいなかった。作らなかったのではなく、授からなかった。
当時は、不妊治療が今のようには知られていなかった。
――子どもがいた方が幸せだったか――
考えても仕方のないことなので考えないようにしてきた。
しかし、妻が独りになったときのことを考えるようになると、
――いた方がよかったかな――
と思うこともあった。
偶然にも、その部下の告別式の翌日にチラシが郵便受に入っていた。
――これがそうか――
と思い、店の机の引き出しにしまっておいた。
店を閉めることになり、整理していたらそれが出てきた。
チラシを見た途端に、部下の顔と、告別式で見たあの少女の姿が浮かんできて、気づいたらチラシに書かれた事務所の住所を地図で調べていた。