40年ほど前の昭和52年(1977)のこと。祖父清は当家菩提寺(ぼだいじ)の宗圓寺(そうえんじ)より、

「最澄生誕1210年ということで、最澄功徳(くどく)の園原薬師堂を比叡山の大僧正(だいそうじょう)以下30名が訪れる」

との報を受けた。園原の代表として、祖父に出席願いたいというのである。

滞りなくその行事は行われ、薬師堂は廣拯院(こうじょういん)と号された。

父の夢、父の事故

一度は教育長の職を辞し野(や)にいた父典章(つねあき)が、議員として行政にかかわることになった。

平成8年(1996)のことである。自分の生き方の集大成、世のため人のために薬師堂を開いた伝教大師の教えを村政に刻みたかったのかもしれない。古道東山道の復興も夢見ていた。

その2年前の平成6年(1994)、一睡もできなかったある朝、私は突如として、彼らの企みを知ることになる。

前の晩も仕事で飲んでいた。帰宅すると、玄関前の小さな明かりはいつものように点いている。シャワーで軽く流したあとに、すべての明かりを消して2階に上がり、そっと布団に潜り込む。

「ん?」。

何か変だ。手探りした横の布団は冷えている。

「トイレかな?」。

時間が経つ。(連日の午前様にとうとう……?)。

子供は寝ている。不安が増す。そっと抜けて居間に下り電気を点けた。気になった車庫をのぞくと車がない。

(どこかに出かけている? 子供をおいてどこに? 急病か? 病院か? もう午前3時、母がどうかしたのか?)。

たまらず母に電話する。呼び出し音が鳴ったかどうか、母の声が聞こえてきた。

「お父ちゃんはどうだ? 生きているのか?」

「何? なに!?」

「何よ! 美代子(妻)はおらんのか?」

母は動揺しており、話を聞いて事態を飲み込むまでしばらくかかった。当時、父母は阿智村園原に、私は隣接する飯田市大瀬木に住んでいた。園原自宅近くのタバコ屋の小林先生(当時公民館長)が帰宅時、清内路(せいないじ)分岐の工事用支柱に衝突し大破している軽トラックを見つけ、駆け寄ったら父だったらしい。

父を知る清内路の人とともに、苦しんでいる父を助け、救急車を呼んでくれたという。携帯電話が普及していない頃のことで、小林先生は自宅に帰ってから母に電話をくれた。

母は私の家にすぐ電話を入れたが私はいない。

「帰ったら急いで病院に行くよう」

と妻に告げたらしい。

母との電話を切ると、外に車のライトが見えた。飛び出して車庫まで誘導しながら、深夜、お隣の迷惑も考えず、妻にあれこれ聞いた。妻は母から

「どの病院に行ったかもわからない。飯田病院ではない」

と聞いたらしい。では市立病院ではないかと妻は電話で確認した。子供を寝かしつけてから駆けつけたという。父は手術中で、看護師に聞いても何もわからない。