第一章「さいたま市」に誕生、幼・小・中・高と過ごした時期

もう一人の勉強のライバル、両親が医者の子は、ライバルではあったが遊び仲間でもあり、僕は何回かその子の家に遊びに行った事がある。物凄い豪邸に住んでいて、両親が開業医であったから、住まいの一部が医院になっていた。

その子の家に遊びに行くと、外国製の玩具がたくさんあった。僕なんかはプラモデルぐらいしか作らなかったから、当時の玩具としては画期的な無線操縦で動く乗り物があったり、オモチャでも通話の出来る電話機等があったので驚いた。

医者の家庭はやっぱり、裕福なのである。おやつに干し葡萄が出て来た。僕はその当時それを食べた事がなかった。

御庭は洋風になっていて、芝生が全面に敷き詰められていて、棕梠(シュロ)の木か何かが植えられていて、その庭にも運動系の大きな木製の玩具が置いてあった。

その子は普通の勉強の他にも色々な知識があった。例えば小学生なのに、女の子と男の子とは子供を産む産まないで身体の造りが違うだとか?

それで、自宅に気に入った男の子を何人か呼んで、何やら秘密の御医者さんゴッコ成る遊びをやっていたのである。

僕は学級委員をやっていたので、小学生ながらああいう所には出入りしない方がよいと考えていて、そういうところには行かなかったが。

そういうオマセな同級生も、その後ちゃんと医学部にも進み、今は立派な女医で開業医にも成っているので然(さ)もありなんである。

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小学校も卒業し中学入学の時には、入学して直ぐに行ったクラス分けの試験で、数学と理科と国語では、このライバル2人を押しのけて、僕は学年トップの成績を取った。

しかしその後、皆は塾に行き始めたが、僕は英語だけの塾にしか行かず、またクラブ活動に夢中だった為に、僕の成績はどんどん下がってしまった。

僕が入ったクラブ活動というのは、陸上部であり、その頃駆け足が少し速かったから、そんな単純な理由で僕は入部したのだった。

だが入部してみると短距離走だけでなく、砲丸投げ、走り幅跳び、走り高跳び、リレー競技、中距離走、棒高跳び等々、色々あった。

僕はその中でも、特に中距離走の800ⅿを中心に活動していく事にした。何故ならば、100m走ぐらいの短距離だと、陸上部に入る人は、大概足が速いので、太刀打ち出来なかったからである。