大正三年(一九一四)八月十五日、加藤高明(一八六○~一九二六)外相はドイツ政府に対し八月二十三日を期限とする最後通牒を発したが回答はなく、日本政府は八月二十三日をもってドイツに宣戦を布告した。
環の日記は大正二年、三年の二冊が残っており、べルリン脱出の二日前、八月十二日で終っている。
八月二日(日)
昨日留守中に伊藤道郎様来られたとのことであったが午前十一時半ごろ同氏が来られた。(16)
戦争のためドレスデンの学校の先生が大かたは露国人なので、本国へ帰らねばならぬために学校が解散してしまうた。それで英国にその学校の分校があるので、伊藤氏も行きたいが旅費に困るし、日本にいうてやってもとても間に合わぬので困ると言はれた。
お気の毒であるが自分たちも遠からず、その運命になりはしないかと思はれて心配である。十マークだけさしあげた。
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
(10)ハムステッドHampstead ロンドン北西部郊外の自治区NW3住居区域
(11)朝日新聞「初めて公開された三浦環の日記と手紙」昭和二十七年十一月三日〜七日(夕刊)
(12)猪木正道著『評伝吉田茂』上巻一一三~一一四ページ(読売新聞社 昭和五十三年刊)
(13)大正三年『職員録』在英国大使館特命全権大使井上勝之助、参事官幣原喜重郎、二等書記官吉田伊三郎、同山崎馨一、三等書記官広田弘毅、同沢田節蔵、外交官補岡部長景、同矢野真、外務書記生益子斎造、岸倉松
(14)三浦政太郎は環が誘惑したため東京帝大の三浦謹之助教授の下を追われ出世の道を閉ざされたと三浦の親や親戚は思い込んでいる。環は三浦の親元で結婚式を挙げたが、三浦家の窮屈さを日記に書き残している。
(15)後藤家を檀家とする牛淵極楽寺、植村重信住職による。昭和六十年七月五日取材
(16)へレン・コールドウェル著『伊藤道郎・人と芸術』中川鋭之助訳一八四ページ(早川書房 昭和六十年刊)八月三十日付の便りに三浦環女史も倫敦に落のびられたり!との記事がある。伊藤道郎は舞踏家。当初オペラ歌手を志して三浦環に師事。一九一一年帝劇オペラで初舞台、翌年の暮れドイツに渡りダルクローズ研究所で舞踏を二ヶ年学び、一九一四年ロンドンへ移る。伊藤喜朔(一八九九~一九六六)や千田是也の長兄。