当時の在英大使館には二等書記官の吉田伊三郎がいた。(13)彼は後に在米(大正十三年)及び、駐英(大正十四年)臨時代理大使を勤めた人である。この点朝日新聞の紹介記事は考証を要する。
ともかく夫政太郎はロンドン大学のスターリング博士の研究室に通うことになる。一週間もすると一人下宿に残る環は何としても家計が心配になり母宛にくわしく事情を認め千円の送金を依頼した。戦時のこととてその返事がくるものか、こないものか一向見当がつかない。環にすれば当然三浦家からの送金であってしかるべきだとの思いはあるが、表だって言出せない事情もあった。(14)
兵士の往きかう緊迫した空気の中では歌の練習もままならず、さりとてこのまま埋もれてしまうのは環の性分が許さない。外国の旅で持ち金に余裕がないほど心細いことはない。一日一日を凌いで日本からの為替を待つが、不安のみがつのる。
三浦夫妻の手にした四千円は、母とわの実弟である後藤佐一郎(一八六三〜一九一九)が用立てたという。彼は静岡県小笠郡小沢村(現菊川市)に生まれ、隣接する牛淵村(現菊川市)の後藤興重の養子となった。
佐一郎は明治維新後、志を抱く青年がつぎつぎと上京を果たした如く、家財を処分し東京市麴町に一家を構えた。大正二年発行の『日本紳士録』によると後藤佐一郎は麴町区中六番町五二に住み、金融業を営んで所得税二百五十七円の高額納税者であった。ちなみに環の父柴田猛甫は公証人として六十円の所得税とある。新橋界隈の芸者の多くは後藤からの融資を受けていたという話も伝わっている。
佐一郎は腹の据わった男で、郷里の者たちが借財を申込むと気前よく融資したり、戦前は不在地主として多くの土地を所有していた。(15)
現在も牛淵には鬱蒼とした樹林を背後に控えた旧宅が残されており環はしばしばここを訪れている。
夫政太郎はシンガポールに赴き、三井経営のゴム園診療所で留学のための資金を稼いだが、この金は三浦の両親に渡してあったので当面は環の四千円が二人の生活資金となっていた。これはすでに旅費等で千円を使い果たして残りの三千円がベルリンの銀行に預けてあったが、戦時のため、銀行は一日に三百円以上は支払うことができないという。
ベルリン脱出の前日この三百円を手にした三浦夫妻は日本人一行にまじって命からがら英国へ避難した。