ロンドンデビュー 下宿
ロンドンの秋は霧の季節でもある。ことごとに口やかましい、下宿のおかみバートン夫人に、人のいい環も愛想がつきてしまう。ソーセージが咽喉に障るからと食べ残すとアレクサンドラは許すだろうが、メリー女王なら許さないと皇族をひきあいに理屈をつけるところが国柄を表しておもしろい。(17)
また食事を中座して政太郎を送り出す環の姿が、男尊女卑の野蛮な習慣と映るらしく文句を言う。「ピアノのキイに汚点をつけた」とか何かと理由をつけて代金を請求するバートンに僻易し、三井物産ロンドン支店長の南条金雄夫人や大使館の井上大使夫人のもとへ何度も気晴らしに逃れたものである。
ベルリンでは憧れのリリー・レーマンにも会えずロンドンに逃避して滞在一ヶ月になるというのに、三浦はすでに自分の道を歩み始めているのに自分はまだ落ち着く先さえ定まっていない。(18)
大使館の二等書記官山崎馨一が日本での環の活躍や噂を承知していてその立場を察して何かと助言を与えた。そして「クイーンズ・ホールの楽長サー・ヘンリー・ウッド(一八六九〜一九四四)に頼み込むより外ありますまい」と勧めた。(19)
ロンドンデビュー サー・へンリー・ウッド
今日わが国でもプロムナード・コンサートと名付けて小品名曲のポピュラー演奏会が催されているが、この名称を世界中に拡めたのがへンリー・ウッドであった。
彼は夥しい数の曲をレコードに吹込んでいるのでその名は日本にも紹介されていた。昭和十四年(一九三九)刊行の野村あらえびす著『名曲決定盤』の中で、英国指導者のトップにヘンリー・ウッドをあげ次のような解説をしている。
ウッドは英国楽壇の長老として非常に大きな尊敬を一身に鍾めてゐる。努めて若き人々に作品を演奏して、同国の作曲界に指導的な役割を演じてゐることもその理由の一つだが、長い間プロムナード・コンサートを開いてロンドンの人々に音楽の趣味と知識を植えつけてゐることも一般から親しまれてゐる所以であらう。(中略)レコードの方でも今から二十年も前に、新曲大曲を盛んに吹込んで、我々を教育してくれた恩人であることを忘れてはならない。
クイーンズ・ホールは一八九三年に建築されたロンドンの演奏会場で第二次大戦中の一九四一年にドイツ軍の爆撃にあい破壊されている。(20)ウッドは一八九五年からこのホールのプロムナード・コンサートの指揮者に就任し、戦災後はァルバート・ホールに移ってコンサートを続け、七十五歳で没するまでその任にあった。