ベルリンからロンドンへ

大正三年八月十七日、三浦夫妻は初めてロンドンに着く。着のみ着のまま、紹介状もなく一人の知人もいないロンド
ンで大使館の指示によりひとまずホテルをとり、ハムステッドのスコットランド人の持家に下宿を決める。(10)

昭和二十七年十一月、朝日新聞は「初めて公開された三浦環の日記と手紙」の見出しで特集記事を組み、五回にわたって彼女の日記や手紙を紹介した。(11)その二で「若き日の吉田首相から親切な手紙」の小見出しをつけ、コメントを付して写真を掲載している。

その文面は

「引揚邦人よりの預かり荷物数千個に達し倉庫という倉庫に雑然と堆積致居到底唯今の処見分けつき難候(中略)当分このままに致し預かり(中略)なお御用も御座候得者何なりと申遣はすべく候得共不取敢御知らせまで如此候」

とあり、闊達な筆致のものであった。

異国でのこの一外交官の親切な計らいが環にどれほどの希望をもたらせたか。この手紙は大正十一年環が第一回の帰国に際して母とわあてに返送したトランクの中に楽譜、写真の類と共に大切にしまわれていた。

ここで若干の疑問が生ずるのは当時吉田茂(一八七八〜一九六七)は、安東領事で朝鮮総督府書記官を兼任していることである。大正元年九月十八日着任してから同五年十月十三日帰朝を命じられるまで四年以上を在朝しており、寺内寿一(一八七九〜一九四六)朝鮮総督の下での勤務のいきさつは吉田茂の『回想十年』のなかに述べられている。(12)

彼が在朝鮮であるなら、この手紙の主は誰かということになる。署名の吉田は判読できるが写真では名の一字が判然としない。

吉田茂なら氏が一等書記官として在英大使館に着任した大正九年(一九二〇)以後のものとなる。そのように判断するなら、当時華々しい演奏活動の旅を続けていた環と別居してロンドンで研究生活を送っていた三浦政太郎が、大正九年十一月帰国に際して荷物の所在を照会したのに対し、第一次大戦後いまだ整理のつかぬままの倉庫の荷についての返信とも考えられる。ロンドン逃避当時のものとすれば吉田生とも読みとれる。