「考える」とは
野矢茂樹(哲学者)の「オトナの教養講座”哲学”(NHK)」で、野矢氏は、「”考える”とは、いったい何なのか」を述べていた。その内容を簡単に記せば次のとおりである。私の考え方も付記した。
「考える」は、二つに区分される。一つは「分析的に考える」であり、もう一つは「創造的に考える」である。
ラーメン屋を例にあげて解説する。
〔ラーメン屋に入る〕→〔メニューを見る〕→〔”メニューを分析する”どんなモノがあるか、値段はいくらか等々、与えられた情報はどんな内容を持っているかを分析する〕→〔懐の具合、腹のすき具合などを考える〕→〔坦々麺を食べることに決める〕
この過程の〔坦々麺を食べる〕が、新しいモノを生むことであり、「創造的に考える」である。
「考える」は、「創造的に考える」が重要である。つまり、新しいモノを考える、新しいモノを生み出すことが肝要。
新しいモノを生み出すキーポイントは、「待つ力」、「問題を抱える」ことである。問題の緊張を失わないで、問題を抱え続ける力(待つ力)が不可欠である。問題というのは抱えていなければ新しいことに気がつかないものである。情報を分析し、仮設を立てて、新しいモノを生み出す。創造性を主とする「考える」が望まれる。新しいモノは「無関係と思われること」も繋げていくことから生まれるものである。
私は「考える」を、次のとおり整理した。
① まったく何もないところからは「考える」はできない。その人の過去の知覚・経験が不可欠である。知覚・経験の範囲や深さによって「考える」のレベルが異なってくる。
② 「考える」は、その人の脳裏に繋がる。無意識であれ、意識的であれ、脳との繋がりがないと「考える」は不可能である。
③ 「考える」は、鎖のように繋がっている。これは仏教の根本的教理・基本的教説「縁起」(〝縁起〟とは、ほかとの関係が縁となって生起するということ。すべての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す)にて説明できる。
④「考える」の媒体は「言葉」である。言葉によって考える。ゆえに、言葉が豊かなほうが良い。