優輝と慶三

「なんなの、この生意気な子は」

帰宅者の波が途切れない幼稚園の玄関の脇では、牧森優輝に呼び止められた保護者の一人が、怪訝そうに眼鏡の位置を直していた。この世代の女性としては、長身の部類である。

元々の彼女はスリムな体形なのだが、ここ数年は意に反して内側から膨らみ続ける中性脂肪に警戒を強めているのだった。

「意味が通じないんなら、もう一回だけ言ってもいいよ。ちゃんと聞いてくれるならね」

優輝は幼い声で、同じ星組の戸畑海との母親を見上げて言った。

「じゃ、もう一度はじめからいくよ。海斗。俺はお前の親に話があるんだ。悪いけど、ちょっとはずしてくれないか」

はずしてくれの意味がわからない海斗は、不安そうな顔を母親に向けた。優輝はそれには構わずに淡々と続けた。

「おばさん。僕はこれからする話を、海斗に聞かせたくないから言ってるんだ。一緒に聞いてくれてもいいんだけど、ショックで明日から休む事態になったら、僕も寂しくなるからね」

なんだと? おばさんだけでも許しがたいのに、その後に小賢しい言葉を続けおって。

戸畑喜美恵には静かな怒りが渦巻きはじめたが、微塵も顔には出さず、「海くん、ちょっとあっちで遊んでてね」と優しい笑顔でひとり息子を遠ざけると、人波の引いた園庭へ移動した。

「さあ、何の話がしたいって?」

盛土で造られた小山に向かう海斗を見送って振り返り、優輝を見下ろす喜美恵の顔は、我が子に向ける時とは別人のように厳しく変化していた。声も六度半くらい低くなっている。

「おばさん。うちが未婚の母子家庭だから幼稚園の風紀が乱れるって触れ回るの、止めてほしいんだけど。僕たち、園の運営に迷惑かけたりしてないよ。うちにはうちの事情があるから、いちいち説明しなくても、保護者どうし仲良くしてほしいんだ。僕は海斗とうまくやってるよ。ほかの園児たちともね。それに先生とも。先生に関しては、母も含めて、いいコミュニケーションとれてると思うよ。そうは見えてないのかな」

喜美恵は腕組みしたまま、息子と同い年の小さな体に視線を這わせて分析している。小生意気な面構えだこと。

「……あんた、ませてるわね」

「それはどうも」

「子供にはわからない空気ってものがあるのよ。親から何言われたか知らないけど、言いたいことがあるなら直接言うように伝えてくれない? 子供に言わせるなんて卑怯なことするなって」

「これは母から言われたんじゃなくて、おばさんが他の親に話してるのを僕が聞いたんだ。うちの母は何も知らないよ」

「なに勝手なこと言ってるんだか」

喜美恵は相手にならないね、という顔で見下ろし、ふ、と小さく嗤った。

「昨日、玄関の横で迎えを待ってる間だよ。和樹と俊哉と啓司の母親に話してたよね。四人で、集団から離れて喋ってたときのことだけど」

「なんであんた、そんなこと知ってるの」

真顔になった喜美恵は、眼鏡の位置を動かしながら小さな園児を凝視している。

「このときが初めてじゃないよね。風紀がどうこうって話は。不穏な話が耳に入ってきたから、ここ数日裏を取るために、あの時間帯にトイレへ行くふりして教室を出て張ってたんだよ。ようやく昨日、現場を確認できたってわけ」

「子供のくせに、スパイみたいなことやってんじゃないわよ」

「こんな子供にスパイのまねさせるような言動こそ、止めてほしいなあ。それを言いたくて呼び止めたんだ」

「………」

喜美恵は鼻を膨らませ、次に口から出す息に勢いをためていた。

「送り迎えに親が来ないのは、あんたのとこだけだよ! 知ってた? そういうところから、風紀は乱れるって」

「送迎の義務付けは、ここの規約に載ってないよ。私立には、そういうところもあるみたいだけどね。知ってて言ってると思うけど、うちは喫茶店で生計立ててるの。母が一人でね。朝は七時半から店開けてるから、送って行けない。閉店は三時だから迎えにも来られない。それに裕福じゃないから、送迎付きの私立なんて、とてもとても。僕が遅刻して迷惑かけたことがあったか、先生に聞いてくれたらわかるよ。一度もない。授業の邪魔したり、先生を困らせたりもない。僕がそれやると、母の顔潰しちゃうからさ」

幼い優輝は一歩も引かなかった。

「……あんた、ほんとに五歳なの?」