次いで「命の大切さ」を感じさせる小説があったことを思い出した。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という小説だ。小説には次のようなことが書いてあった。
───外界とは容易に通じることのできない全寮制の学校内の話が主である。学校に勤務するキャシー・Hが淡々と述べる。冒頭から、学校の生徒たちは「臓器提供」のために造られていると明らかになる。生徒たちは皆、中年までも生きられないという運命の持ち主たちであった。キャシーが選んだ臓器提供者にルースとトミーがいた。ルースは普通であろうが、トミーは癇癪持ちで創造力がない。稚拙な絵を描く───
小説は通常では想像もつかないストーリーであった。人生の中程までも生きられない命なのである。それに比べると、病を抱えているとはいえ、自分は何と幸せなことであろうか、と西村は思った。さらに、自分はこれから先、どう生きようかと思った。自分は逆境にある。逆境に打ち勝つ。
ふと、山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』の恩地元という主人公に行き当たった。
主人公の恩地元は航空会社のエリート街道を進む社員だった。だが、周囲に押しつけられ労働組合の委員長に就任する。同僚で盟友の行天四郎は、会社員としての生き方上手だった。上層部に気に入られるような行動をとり、会社の幹部に登り詰めて行く。
恩地元は行天四郎とは対極的な会社員であった。最終的に恩地は、会社上層部からの圧力で海外赴任を命じられる。事実上の左遷であった。赴任先は生活環境の劣悪なパキスタン・カラチだった。
恩地は、この地で力強く生き抜いて行く。彼は「沈まぬ太陽」である。
そんなことを思い巡らせていると、娘の声が西村の耳に飛び込んできた。
「お爺ちゃん、お爺ちゃんの葬式は簡素にしてあげるからね。"最低費用の葬式"にしてあげるよ」
《また、葬式の話か》、と西村は思った。
《娘は、私の体を心配している》
「ねえ、お爺ちゃん。富士山とか薔薇の油絵は、またいつから始めるの? 描いたら、絵を買い上げてもらって儲けてよ!」
「うん、なんだか創作意欲が湧いてきた。もうすぐ描き始めるよ」
「お爺ちゃん、『三枚の耳』の出版記念とサイン会。本が売れたし、展示した絵や絵画も良く売れたから、大成功だったね」
「そうだ、良かった」
「また、何かおいしいものを食べに行こうよ」
「新型コロナウイルスは、大丈夫かな?」
「マスクをしていればOKよ。お爺ちゃんコロナウイルスに感染したらおしまいよ。気をつけてね」
娘は私におねだりしてきた。がん患者がまだ生き続けている証拠だ。「死から生へ」の転換だ!
明日がある。