サクラ
岬索良之介は、三年前から始めた登山の良い季節を迎え、休みというと山を登っていた。
もともとサッカーをしていたので本当は体を動かしたい。しかし、看護師でシフト制。夜勤もある仕事をしているので、同じ曜日にサークル活動などできない。一人でできるスポーツ、と考えた時、いくつかの候補から登山が思い当たった。最初は近くの小さな山から始まり、少しずつ範囲を広げていった。地元の山、東北の山々、そして二年目に富士山に登頂成功した。その頃から、一人ではなく誰かと登るのも良いのではないかと考え始めた。
サクラの職場は老人ホームで、看取りも行うホームの看護師だった。職員はほとんどが介護士。女性も男性も、興味のある者を誘い、四人~五人のパーティーを組んで、休みを合わせて取り、月に一度は仲間と登るようになった。そして丸三年。五月にはめったに取れない有給を一週間取って、名古屋の小学校からの親友の結婚式に出かけた。車で往復し、長野の諏訪大社、名古屋、帰りは東京の友人を富士山に車で連れて行き、最後に長野の金峰山に一人で登頂、山小屋に一泊して帰ってきた。
先週も職場の仲間と登った。来月も仲間と登る予定だ。今週はたまたま月火と休みなので、二日間一人で登ってみよう。木曜日は毎月の、認知症の祖父と母・明純と三人で外出する約束。渋国村に空豆を使った食事処ができて、それが母の友人、サクラの幼稚園の友達の母親の店だから、そこに行きたい、と明純が言っていた。
「おじいちゃん利用して、自分の行きたいところに行こうとしてるな」
「そうだよ」
母は、当然のような顔で笑った。
サクラは月曜日緑が森に登り、無事下山した。下山する時、かならず両親とのメッセージグループにその日写した写真を送っていた。そして、翌日が武蔵山脈。行程はそれほど厳しくなく、午後二時には下山できると、いつものアプリが登山計画書を表示した。山岳保険に入っているので、登る時は必ず、登山計画書を提出する。さらに、自分の控え、両親に印刷したもの、さらに手持ちで持って行く計画書。雨などで濡れてしまった時用の予備の計画書と、リュックに詰めた。予定通り、翌日は七時には家を出た。
しかし、登山計画では通れたはずの追分からきつね温泉跡の道が立ち入り禁止になっている。入ってみたが三メートルもの木々が行く手を阻んでいて、一度戻って十一時に早めの昼食にした。さて、予定通りの道を行っても、計画では二時間半だが、もっとかかるだろう。しかし竹谷温泉コースは四時間半かかる。どうしたものか。
サクラは崖下にいたような気がした。
しかし、いつのまにか家に帰って来ている。
父母が「サクラが帰ってない」と言い、母は大声で「サクラ」「サクラ」と呼んでいる。やがて母は、車を出して緑警察署にサクラの捜索願を出した。緑警察署では武蔵山脈管轄の武蔵警察署に連絡してサクラの車が「毘紐天」で見つかった、と母に告げた。確かに登山計画書では駐車場は毘紐天だった。しかし、
(車は鬼塚に置いてきた。間違ってないよな)
翌水曜日が捜索一日目。両親は、最初家にいたが、昼前に武蔵山脈に向かった。毘紐天駐車場と言われていたのに、サクラの車を見つけて鬼塚に停めた。
(捜してくれてるんだろうか)
サクラは上空から大雨・大風・大嵐の山を眺めた。
(地図上の登山道にしか人がいない。長く連なっているけど、それじゃあ、難しいな)
サクラは、もう一人のサクラのもとに降り立った。昨日からもうピクリとも動かない自分。登山道から大きく外れているが、澱川付近で前後に難所があるが道があり、この道を澱川沿いに捜せばみつかるはずだ。それに、今日は天気が悪いが、明日以降ヘリコプターが飛べば、上からは丸見え。みつからないはずがない。きっと明日にはみつかる。そうでなければ、喘息持ちの母の身体が持たない。早く、みつけてくれ!
しばらくして嵐で捜索を切り上げ、両親も帰っていった。
(かあさん、とうさん。明日にはみつかるから、ごめん。ごめんね)