小学生全集
四歳か五歳の頃、戦時中に買ってもらった絵本に、アジアの子供が進駐した日本兵にやさしくされて喜んでいる話があった。妙に印象に残っているのだが、私が生まれた昭和十四年は、領土を広げるべく日本は世界を敵に回して戦っている最中だった。
私たちの世代は幼い頃から、植民地やあの戦争を正当化するよう頭に刷り込まれていたのだ。外来語は敵性語として排除される時代でもあった。
菊池寛が、これを読むと読まないとでは子供の性格や情緒に差異が生じると、自信を持って『小学生全集』を世に送り出してから、わずか十余年。この全集を読んだ子供の中には、太平洋戦争で命を落とした人もいただろう。こんなにも心温まる、楽しい西洋の物語に親しんだ人たちが、何の躊躇いもなく日本以外の人々を鬼畜と信じて戦ったのだろうか。
全てに目を通すには何日か掛かった。夕暮れが迫る頃、近代文学館を出る。駒場公園の伸びるにまかせた大木を見上げて帰りながら、あの木は『小学生全集』が世に出た頃を知っているにちがいないなどと思う。私は、昭和初期の子供の世界に入り込んだまま井の頭線に乗る。混んだ電車の中で、ようやく現実に、七十余歳の自分に戻ったのである。
〈付記〉
この文章がもう少しで仕上がろうという二〇一九年三月七日、NHKの番組「日本人のおなまえっ!」を何気なく見ていると、解説者が「シンデレラという名前のきっかけとなったのはこの本です」と掲げたのが、忘れもしない『小学生全集』だった。
赤い西洋服を着た男の子が太鼓を叩いている素朴な色調の表紙に、わかばマークの模様がついている。昭和二年に菊池寛が手がけたという説明が続いた。
どこから掘り出してきたのだろう。縁は摩耗して白っぽくなっているが、私が近代文学館で見たものより保存状態がいい。
あまりの偶然に私は声を上げそうになった。幼い私を楽しませてくれた本への感謝を込めてこの一文をものした私へのご褒美としか思えなかったのだ。
沖田くん
私が兵庫県の小さな村から鳥取の町に移ったのは、もうすぐ六年生になるという昭和二十五年の春だった。
鳥取駅からメイン道路の若桜街道を北へ二キロほど行くと、久松山という小高い山に突き当たる。若桜街道の西に智頭街道と鹿野街道が並行して走っており、どれも江戸時代の重要な往還だった。
久松山の山腹に大名池田氏の城があったが、今は苔むした石垣がきりっと立ち上がっているだけだ。
二の丸跡には松の大木に混じって、桜や楓があり、季節ごとにそれは見事だったけれど、華やかな中にも「兵どもが夢の跡」といった哀愁が漂っていた。