神戸

私が物心ついた頃、神戸の我が家には両親と兄、弟の他に母方の曾祖母、叔父、叔母がいた。

記憶にあるのは、未だ十代の叔父が外でお酒を飲んで酔っ払って帰宅しては、咎めた父と口論していた様子である。

「今何時だと思っている? 未成年のくせに、酒を飲むな……」

「何をしようと自分の勝手や。放っておいてくれ!」

若くて子育ての経験の浅い父には、ストレートに厳しく叱ることしかできなかったのだと思う。叔父の心に寄り添える余裕がなかったのだろう。

母は弟の不行状を叱りながらも、本音は不運な弟を庇ってやりたかった。一方、父に対しては、自分の弟が、父を苦しめていることに、申し訳ないと悩んでいた。若い頃の母はいつも暗い顔をして無口な人だった。

そんな中でも、神戸市内の造り酒屋の町、灘で育った私は、七歳の時にのっぴきならない事情で東京へ転居するまで、酒や酒樽の独特の香りのする町で、酒蔵の白壁と黒い焼杉板の塀に挟まれた細道を、友達と無邪気に走り回って遊び過ごしていた。

子供の頃は、我が家を立派な家のように思っていたが、今思えば戦後の掘っ立て小屋だった。

狭い家に八人で暮らしていた。庭があったので、両親は、サツマイモなど食料の足しになる野菜を育てていたらしい。戦後の食糧不足は深刻だったようだ。

学校にも上がらない小さな頃は、何故か匂いの記憶がたくさんある。庭に植えられた桃やイチジクの実や葉の甘い匂い、夏みかんの柑橘類独特の爽やかな匂い、そしてもう一つ、庭の中央にはクスノキの大木があった。クスノキは衣類の防虫剤、樟脳の原料として、当時は大切にされていたそうだ。

台風が近づくと、木の枝がワサワサと揺れ、暴風で枝が折れて飛んでは危険だということで、事前に、父が木に登って、枝を払っていた。悪い匂いではないが、さすが防虫剤に使うだけあってとても強い匂いだった。この木の匂いが強烈だったため、小さな子供だった私がこの父の作業のことをよく覚えている。

又、我が家は海が近かったので、風向きによっては家にいても磯の匂いがした。友達と一緒に、砂浜で地引網を引かせてもらって、網にかかった小さなフグやコチなど商売物にならない小魚をもらって遊んだりもした。