八 妻の自立
四十代半ばまで、自営の夫の手伝い程度のことはしたことがあるが、ほとんど専業主婦で過ごしていた。
平成五年、長男が高校を卒業した春、近隣の大学の受験に不合格となった彼が、
「予備校に通って、来年は筑波大学か北海道大学の理系を受験したいと思っている。構わないか?」
と言い出した。
その時点で長女は同志社の四年制大学に自宅から通っていたので、息子も自宅通学のできる大学をと考えていた。しかし、
(子供が前向きに何かをしたいと言った時には、できる限りその後押しをする)
というのがそれまで私達がしてきた子育てのモットーだったので、前後の見境もなく、長男に了解の返事をした。
しかし、遠方の大学、それも理系となればおそらく大学院まで六年間通うことになるだろうから下宿代、生活費込みで、学費負担が半端ではないと判断した。
二歳下には妹がいるので、その進学費用もあわせて考え、私は就職活動をすることに決めた。
ところがその時期は就職氷河期と呼ばれた頃で、新卒の学生でさえ就職にはかなり苦戦を強いられていた。特に女子学生は厳しかったようだ。だから高卒で、特に技術も資格もない四十六歳の女性が採用されるチャンスはあるのだろうかと真剣に考えた。
結論は出ないまま、当時パソコンではなくワープロ全盛の頃だったので、まずワープロを習得することにした。ブラインドタッチの教則本一冊とワープロを一台購入し、練習した。約一カ月の独学で、なんとか打てるようになった。
履歴書に書くと決めていることが他にひとつあった。
『英語能力、日常会話程度』
とても厚かましいとは思っていたが、三十代後半に子育ても一息ついた頃、英会話の学校に通い始めて、数年勉強していた。いつか就職する機会があった時、多少でも英語の会話能力があれば、大卒の人より採用される好条件になるのではないかと思っていた。
こんなことを考えるのは、学歴コンプレックスのなせる業だった。
あの頃、高学歴の人でも英語を話せる人は少なかったので、いつか役に立つかもしれないと思っていた。決して上手ではないが、履歴書に書けば、試験官が注意を向けるくらいの効果はあるかもしれない。何が何でも就職しなければと思っていた。
ワープロが打てるようになった頃、書店で女性の就職情報誌『とらばーゆ』を買った。
ページをめくってみて、やっぱり甘かった自分を知った。
全ページの中に、四十六歳の自分が、年齢制限に引っかからなかったのは、なんとたったの一社だけだった。『うそでしょう?』という心境だった。
それでも就職しなければと、気持ちは前向きだった。その会社の合格を目指して履歴書を書いた。
(特技、ワープロ、英会話、経理事務、洋裁、和裁)
ほとんど大風呂敷だった。応募したのは、花嫁衣装の貸衣装店で、ハワイでの海外挙式の業務を始めるためのスタッフ募集ということだった。衣装の直しなど必要かもと思い、趣味程度の裁縫をも特技として書いた。その上、別紙を、履歴書に挟み込んだ。
その用紙には、ワープロ打ちで入社の意欲を書いた。とにかく目に留まるようにだけはしておこうと下手な戦略を立てた。
筆記試験の日、会場には五人程度の募集に対して七十人を超える女性が集まった。
新卒の女子学生もたくさんいて、やはり女性には厳しい就職戦線のようだった。
ところが試験会場になっていたその会社の店舗に入った時、人生経験の少ない若い女性たちは感じなかったかもしれないが、四十六歳の自分には感じる就職先としての違和感があった。
それはその会社の体質にある独特の臭いと言えようか。結婚衣装店の女性社員の制服は、普通、花嫁を引き立てるために、目立たない色のはずだと思っていたが、その店では真っ赤なジャケットに金ボタンで、まるで水商売のようだと感じた。
また、リーゼントで黒いスーツの男性社員が店内をうろうろしていた。この会社は反社会的な資質ではないのか。仕事はほしいが、合格してもここで働けるだろうか。
あれこれ考えをめぐらしていたが、とりあえずは合格を目指してみようとだけ決めて、試験に向かった。
英語の筆記試験はハワイの現地企業との挙式に関する業務契約書の日本語訳が問題だった。
幸か不幸か、十名の一次試験合格者の中に残った。